< 普羅43 前田普羅の地貌句「能登恋い」②>

 能登の美しさや人々の生活を詠んだ普羅の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p97) 蝮捨てに出でて福浦に顔うつる

 蝮を「はみ」と古語で読ませる。福浦港は中能登・富来町にある小さな入り江の天然の良港である。奈良、平安の時代には大陸の渤海国との交流の基地となり、江戸時代には北海道と大阪を往き来した北前船の寄港地としても栄えた。打ち殺されたであろう蝮とそれを捨てに出た人間の顔が映る入り江の水は、研ぎ澄まされたかのように蒼く澄んでいる。

※福浦港(ふくらこう);石川県羽咋市


< 普羅42 前田普羅の地貌句「能登恋い」① >

 普羅は、能登の自然や人々をこよなく愛していました。今回から、その普羅の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p96) 雪卸し能登見ゆるまで上りけり

 近年の地球温暖化現象でめっきり減った「雪卸し(雪下ろし)」だが、普羅の時代はそうではない。北陸の雪は水気が多くて重い。家を潰されないように、二階部分の大屋根の天辺にまで上がって雪を下ろさねばならない。命がけの作業である。「能登見ゆるまで」に能登を恋う普羅の心情がうかがえる。
能登を詠んだ作品は、昭和25年に刊行された『能登蒼し』に収録されている。同句集は普羅自身が著した最後の句集で、『春寒浅間山』『飛騨紬』と並んで国別三部作をなす。国別三部作は、普羅のいわゆる地貌論、すなわち地形や気候が異なれば植物も異なるように歴史、風土も異なり、そこでの人生も自ずと異なるから、それに適った句を作らねばならない、との考えにもとづくものである。

普羅14にも主宰の鑑賞があります)


< 普羅41 前田普羅の「奥山」③ >

 普羅の最晩年の「奥山」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p86) 花散つてゐる奥山の恐ろしき

 普羅の山の句の中でも「奥山」と詠まれたものは、「奥山に逆巻き枯るる芒かな」「人の世の奥山の草枯れて立つ」など20句余りある。昭和9年の壮年期にあっては「明るしや黒部の奥の今年雪」というように神韻たる雰囲気を漂わせながらも、まだ写生句としての足掛かりがあったが、次第に普羅にとって「奥山」は現実の世界を超えた畏敬の地と化していく。そこは、また憧憬の地ともなって行く。そして、一代の絶唱の一つ「奥白根かの世の雪をかがやかす」が生まれている。
 が、「花散つてゐる」の掲句は、一読、哀しさが伝わってくる実に閑寂な境地に至っている。亡くなる前年の昭和28年の作と知れば合点も行こうか。「明るしや黒部の奥」と詠んだ時代とは何と対照的な「奥山」であろうか。暗黒より生まれ出でて暗黒へと散りやまぬ花の乱舞が妖しいばかりだ。かく「恐ろしき奥山」も、その年の秋には、「奥山の草爽やかに刈られけり」と詠まれていることは救いである。いよいよ衰えてきた普羅が、己が苦しみから逃れんとしての心の整理をしたようにも思えてくる。


< 普羅40 前田普羅の「奥山」② >

 引き続き「奥山」の句に込められた普羅の心情を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p63) 奥白根かの世の雪をかがやかす

 「駒ヶ岳凍てて巌を落しけり」とともに「甲斐の山々」と題する五句中の一句。発表された昭和12年1月17日の東京日日新聞(毎日新聞の前身)を見ると、連載小説や映画評など読者の楽しみとする頁のど真ん中に、普羅の五句だけが囲みで載る。一連の作は発表当初から大きな反響を呼んだが、それは独り俳壇だけのものではなかったろう。
 そもそも「奥白根」という呼称はない。普羅は「奥黒部」「奥山」などと「奥」なる言葉にとりわけ思い入れが強い。三千メートルを超える南アルプスの主峰、北岳、間ノ岳、農鳥岳の白根三山を遠望しての、しかも普羅俳句の特別の主題の一つともいえる「雪」を深々と被った、その山容を「奥白根」と呼ぶに何ら違和感もない普羅であった。その「奥」なる世界は、「かの世」へと導く序詞のようでもある。「かの世の雪」といっても霊魂の世界を飾る雪ではない。小賢しい人間の知恵や懊悩などとは全く無縁の、否、普羅が行き着きたいと願う理想郷にある清浄無垢なる世界のようでもある。「かがやかす」は讃美というよりも、普羅の祈りにも似た憧憬が吐く言葉であろう。『定本普羅句集』所収。

(参照 「駒ヶ岳」の句鑑賞 普羅19へ

【甲斐の山々】
駒ヶ岳凍てて巌を落しけり
茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る
霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳
茅ヶ岳霜どけ径を糸のごと
奥白根かの世の雪をかがやかす


< 普羅39 前田普羅の「奥山」① >

 普羅35「老いと漂泊」でみたように「奥山」は、普羅の心情を理解していく上でとても重要です。その奥山の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p53) 奥山に逆巻き枯るる芒かな

 普羅の句にはよく「奥山」が出てくる。この句のように「奥山に」が初句となるものは「奥山に風こそ通へ桐の花」「奥山に飛騨の国あり初しぐれ」「奥山に小蔭なしゐる桂かな」、また「奥山の」として「奥山の芒を刈りて冬構」「奥山の枯葉しづまる春夕」「奥山の径を横ぎる蕨とり」「奥山の菫を染むる風雨かな」「奥山の草爽やかに刈られけり」など、さらに「奥山も松を納めてゐたりけり」というものもあれば、「人の世の奥山の草枯れて立つ」「花散つてゐる奥山の恐ろしき」など中句に来るものもある。
 「奥山」は普羅にとって現実の世界を超えた、ただならぬもののようである。それは畏敬の地でもあれば憧憬の地のようでもある。が、決して一定不変の安住の境でもない。普羅のその時々の精神を反映して明るくもなれば暗くもなる。その奥山に「逆巻き枯るる芒かな」と詠んだのは昭和9年、40代末の俳人としての充実期だが、それはまた社会の様々な矛盾に懊悩しながら俳句文芸の高みを目指した苦悩の時代でもあった。「逆巻き枯るる芒」は、普羅自身の苦闘の果ての姿のようにも見えてくる。『定本普羅句集』所収。

 


< 普羅38 前田普羅の孤愁「秋風」>

 今回は、深まるばかりの孤愁に身を置く普羅の「秋風」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p81) 秋風の吹きくる方に帰るなり

 普羅はよく山岳俳人と称されるが、山岳俳人の名では律しきれない心の中の葛藤にもがき苦しんだ作品も多い。この句もまさにそうであり、人間普羅としての生き様を思わせるものがある。昭和23年の作にして前書きに「小恙数日の後9月24日大和関屋を立つ 二句」とあって、一句目は「秋風のおとす雫にゆるる葛」である。
 「秋風の吹きくる方」とは、富山の普羅自身の家に他ならない。「秋風」は普羅にとって人生の晩秋の寂しい秋風なのである。漂泊の詩魂なるが故の普羅の風狂精神は人生のための芸術を実践しようとする。それは、実社会を生きて行くためには少なからざる困難をもたらそう。普羅の一生はそうした精神的な葛藤に捧げられたと言ってもいい。そんな普羅が暫しの夢心地のような仮泊の旅を終えて、現実社会の象徴としての独り住む我が家、すなわち「秋風の吹きくる方」へ帰るのである。この句は淡々とした詠みぶりで心のうちを表立たせてはいない。一句の鑑賞は読者に委ねられてそれぞれに解釈されるのだが、何かしら後ろ髪を引かれるような、いわく言いがたい余韻を与えてもいようか。

 


< 普羅37 前田普羅の孤愁「妻逝く」>

 今回は、普羅の孤愁を深める「妻の死」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p65) この雪に昨日はありし声音か

 「1月23日夕、妻とき死す、24日朝」との前書きがある昭和18年、普羅58歳での作である。平明な詠みぶりながらも一句を貫く強い響きがあって韻律も美しい。寒中とはいえ、よく降る雪なのだ。「この雪に」には、妻の死という一大事にあたかも天が呼応して雪を降らせているような味わいがある。
 妻ときの生涯は決して幸せとはいえなかった。幼い頃より知る一族同士の結婚で幸先こそよかったが、普羅は漂泊の心に任せた旅をやめず、金銭感覚もなく、さらには女性問題も絶えない夫であった。妻としての精神的また家計の苦労は並大抵ではなかった。名門の前田家を実家とするときには、まことに皮肉な人生であったといえよう。それは、普羅自身も自覚はしていたに違いない。「昨日はありし声音かな」には妻を思う哀切な心情が籠められていよう。悲痛さの象徴として「声音かな」と結んだことも印象鮮明である。
 「2月15日、この頃毎日ひとりなり」と前書きした「ひとり居に慣れてもわびし春吹雪」つづく「吹雪やみ物音とほき夕かな」からは普羅の寂しい横顔が浮かんでくる。

 


< 普羅36 前田普羅は「漂泊の俳人」>

 今回は、普羅の「漂泊」について、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p92) 「地貌」を詠む漂泊の旅

 前田普羅の句には、今日一般的にいうところの旅吟というものは存在しない、それが過言というならば、きわめて少ないというべきか。普羅は基本的には漂泊の俳人である。止むにやまれぬ懊悩の末に旅に出る、と私は考えている。そして、その俳句精神には学ぶべきことが多い。

  かりがねのあまりに高く帰るなり   普羅

 亡くなる4年前の昭和25年の作である。「あまりに高く」が、もの悲しさを超えてすさまじくさえある。あまりにも高き雁の飛翔は、果てしなき求道の途にある普羅自身の、漂泊に老いた孤独な姿とも重なって見える。普羅の漂泊は本性のしからしむるところもあろうが、少年時代に出会った志賀重昴の『日本風景論』の影響も大きいように思う。日清戦争の最中に出版された同著は、日本の風景は世界の中でもすばらしいと説くものだが、少年普羅のこころに各地の風景に直に触れたいという願望が生まれたと思われる。それが、後に風狂のこころとも相俟った旅路につながって行くこととなるのである。


< 普羅35 前田普羅の「老いと漂泊」>

 普羅の俳句において重要な意味をもつ「老いと漂泊」を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p21) 老いと漂泊

  秋風の吹きくる方に帰るなり(昭和23年) 

 昭和23年、名残惜しき大和の旅先から富山の住まいへと向かう折りの一句である。<秋風の吹きくる方>とは、すなわち富山を指す。普羅は解脱がならぬままに、漂泊の旅を重ねて行く。

 大正12年に横浜で関東大震災に遭い奇蹟的に助かるが蔵書三千余冊とともに資産を焼失、昭和20年8月には富山にて戦災のため横浜時代を上回る蔵書とともに家を失う。そして、翌21年3月、疎開先の富山県西部の津沢町で大火に罹災、以来、転々とした暮らしを余儀なくされることとなる。この間、昭和18年1月には、苦労をかけた妻を亡くした。

  この雪に昨日はありし声音かな(昭和18年)

同23年までに二人の娘を嫁がせて、いよいよ孤愁の影を深めた。

  元日を覚むるやつねの北枕(昭和24年)

 若きより各地へ赴いた普羅であったが、持病の腎臓病悪化とともに晩年になるに従ってその身と魂は漂泊の度を深めて行った。この句は没する昭和29年に先立つ5年前の作だが、辞世的な趣が深い。

  花散つてゐる奥山の恐ろしき(昭和28年)

 <恐ろしき>という強烈な主観語を下五に据えているにもかかわらず、一句全体としては閑寂境に至っている。山の句の中でも黒部峡谷など<奥山>と限定したものは二十句余り。

  奥山に逆巻き枯るる芒かな(昭和9年)

  人の世の奥山の草枯れて立つ(12年)

 普羅にとって<奥山>は、現実の世界を超えた畏敬の地であり、また憧憬の地でもあった。昭和11年には、一代の絶唱、

  奥白根かの世の雪をかがやかす

が生まれている。

 <花散つてゐる>の句は昭和28年作、没する前年のもの。<奥白根>の明るさに対して、なんと暗黒の<奥山>であることか。<奥山>の暗黒に散りやまぬ花が妖しいばかりだ。暗黒より生み出て、暗黒へと散りやまぬ花片の乱舞。身動きもままならなくなった最晩年の普羅の脳裏の<奥山>は、かく恐ろしきものであった。

 しかし、その年の秋には、

  奥山の草爽やかに刈られけり(昭和28年)

と詠まれているのが救いではあるが、それは、気力、体力がいよいよ衰えた普羅が己が苦しみから逃れるために、無理に心の整理をしようとしたようにも思える。


< 普羅34 前田普羅の「向日葵の月」>

 今回は、普羅の「向日葵の月」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p37) 向日葵の月に遊ぶや漁師達

 「向日葵の」の「の」が主格の「の」のようにも見えるが、主語はあくまでも「漁師達」であって「向日葵の月」に遊ぶのである。明治末年、ところは九十九里海岸の波打ち際を延々と伸びる「納屋通り」と呼ばれた道。納屋とは漁師が寝泊りする小屋で、垣には向日葵が咲いている。向日葵も今日よく見る小ぶりなものではなく、高く逞しいものであったろう。その道には血気盛んな若い漁師相手の呑み屋も点在し、低い松と熱砂の道は日が落ちると夜遊びの道と化した。今では想像もつかない漁業盛んな時代の光景である。
 「向日葵の月」との把握は、長汀から天空までの大空間を鷲掴みにしたような壮快さがある。月の夜は浪が高く、人の背丈の三、四倍になることもあるという。沖も白み出すころ、遊び足らない漁師達が呑んだ勢いで浴衣も飛ばしそうに、あられもない格好で帰り来る。その抑え難い放埓の気に自らの心境をも重ね合わせた「遊ぶや」の措辞である。九十九里の一角の千葉県白子町、当時の関村は普羅の父の故郷で普羅自身も親しく訪れて滞在している。普羅、二十代後半にしてよく風土と習俗を活写した一句。『普羅句集』所収。


< 普羅33 前田普羅の「梅雨」>

 今回は、普羅の梅雨の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p167) ひびき日ねもす梅雨の山

  薬師立山しばらく見えし梅雨入哉
  荒梅雨や何の木の実か空走る
  梅雨寒し猫来て眠る本の上
 この猫、人を見る目があるのかないのか、大胆にも普羅先生の大事な本を踏んづけて居眠るとは。読後感からして、この猫君は叱られたり追い払われたような形跡はなさそう。動物を優しく見守る普羅の心は、次のような句にも表れている。
  馬の子のかぎたる草に梅雨の蝶
 梅雨の蝶とは言っても、雨上がりの光の中の蝶であろう。日が射して湯気が上がりそうな草原、馬の子が草を嗅がんと顔を草に寄せる。馬の子といえど、その鼻息は蝶にとっては驚天動地の風圧だ。馬の子の瞳と梅雨時の鈍そうな蝶の驚きを、普羅の諧謔心がやんわりと包んでいる。

  伐木のひびき日ねもす梅雨の山
 採り上げられることもあまりない地味な句であるが、私の好きな句である。山中や渓谷に身を置くことを好んだ普羅ならではの句である。『飛騨紬』(昭和22年)所収の一句だが、それに先立つ『普羅句集』(同5年)では
  日もすがら木を伐る響梅雨の山
の形で収められている。二句を比べて、「伐木のひびき」と打ち出して説明調を払拭したことなどで句が良くなっていよう。
 梅雨の山中に響く木を伐る音は、かつての日本を象徴する音の風景の一つであった。

  白樺を横たふる火に梅雨の風
 美しく横たわる白樺を燃やさんとする風は、湿気十分な梅雨の風であり、土や木々の匂う山の風である。色彩と風の音、そして山家の暮らしの匂いがある。
  荒梅雨や山家の煙這ひまはる
  梅雨ながし静かに燃ゆる白樺
 暮らしのための火を燃やす煙はいつも周りにあった。

(『辛夷』平成13年8月号掲載)


< 普羅32 前田普羅と「御仏」>

 今回は、普羅のこころに響いた「御仏」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p84) 御仏を見し眼に竹の枯るるなり

 「御仏を」と詠んで、大和路にての作ではなくて佐渡でのものであることも面白い。晩年にかけての普羅の動きは実に活発である。娘の明子が結婚して独りとなってからの、すなわち昭和23年以降の足取りをたどって見ても、佐渡、大和、四国、伊勢、大和、東京の各地と巡り、同26年5月には四国、丸亀、そして6月にまた佐渡へと渡って、この句を詠んでいる。『定本普羅句集』ではこの句の前に「梅雨仏一指に印を結び居り」があって、その前書きに「真野村国分寺に薬師仏拝観」とある。その数句前には「竹の秋笹も秋なる佐渡に来ぬ」や、「韃靼の方は青空梅雨の海」などの吟も見られる。
 「御仏」とは、「延喜式」にもあり幾多の災禍からも難を免れてきた薬師如来像である。広く張った肩や胸など平安時代前期の彫りを伝えていて大らかで気品に満ちた御仏の像は、人生のための芸術に難渋して漂泊やまない普羅のこころには、さぞ美しくありがたく映ったのではなかろうか。そして、そんな眼に映る「竹の枯るるなり」は、御仏の功徳を感受して胸が熱くなっての反語的な表現のようにも思えるのであるが。


< 普羅31 前田普羅の「山吹と寝雪」>

 今回は、普羅の「山吹と寝雪」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p69) 山吹や寝雪の上の飛騨の径

 先ず、「寝雪」は「根雪」の誤植と思われようか。辛夷社刊『定本普羅句集』でも原典の『飛騨紬』(昭和22年)でも、この句のみならず「寝雪照るや」「寝雪につづく」などと用例が見られ、それは門人にも及んでいる。雪に圧倒されながらも雪を愛し雪の側に立っての「寝雪」という感覚である。情感としては「根雪」を凌駕するものである。山吹も普羅の好きな花である。普羅は少年の頃に読んだ『日本風景論』の「奥飛騨の春」と題した表紙絵にも感動して「奥飛騨の春を見得ることは換ゆるものなき自分の幸福となって居た」と書いているが、その絵には水に反る両三枝の山吹が描かれていた。『飛騨紬』にある「山吹にしぶきたかぶる雪解瀧」の句も現でもあり普羅の理想郷の光景でもあろう。
 春もたけなわというのに、寝雪の上を滑るように飛騨の径があるのだ。しばし歩を止めもする普羅だが、これこそ飛騨の国、こういう生の飛騨の国の貌を見たかったのだ、と直ぐにも得心して目を輝かせながら歩み出すのである。同句集には「飛騨人や深雪の上を道案内」の句もある。歩きたくなるような「寝雪の上の径」である。


< 普羅30 前田普羅の「鞦韆と小商人」>

 今回は、普羅の「鞦韆と小商人」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p45) 鞦韆にしばし遊ぶや小商人

 今日では「小商人(こあきんど)」という言葉も反って新鮮に響く。作句当時の大正末年あたりでは、さまざまな分野で僅かな元手による行商などの小商いが盛んであった。富山へ移住して間もない頃であり、柳行李を傍らに置いた「売薬さん」なども親しい存在であったろう。
 たまたま子供たちも居ない日中であろう。歩き詰めによる疲れを癒す風でもない。「遊びし小商人」などとせず、「遊ぶや」と切るところに普羅の思いが籠る。「しばし遊ぶや」の哀しげな余韻が気になるのである。シュウセンの響きも冷たい。子供の頃への郷愁もないではないが、ブランコに軽く身を置いて漕ぐでも漕がぬでもない小商人の姿に、行く末に対する漠然とした不安を抱きながら日々流されている普羅自身を重ね合わせているようでもある。小商人を眺めても、その生きざまにまで思いを致す普羅であった。
 後年、普羅は「越中に移り来りて相対したる濃厚なる自然味と、山岳の威容とは、次第に人生観、自然観に大いなる変化を起こし」と述べているが、そうした変化が兆しつつあった時期の滋味深い作品として読む。『普羅句集』所収。


< 普羅29 前田普羅の「雪割」>

 今回は、普羅の「雪割」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p59) 雪を割る人にもつもり春の雪

 現代では「雪を割る」ということが、俄かにはわからなくなりつつあろう。この句がなった昭和9年当時は今日のような温暖化はないから積雪も多かった。とりわけ、この年は大雪であった。富山に降る雪は富山湾を流れる対馬暖流と大陸からのシベリア寒波との温暖差によって発生した蒸気が雪雲となったものであり、降る雪も水分の割合が高い。積雪も下層へ行けば行くほど水分が沈んで重くなる。いわゆる雪がしまる、というもの。現在のような機械力による除排雪もできず、また地下水や熱による消雪、融雪の装置もない時代であったから、卸された屋根雪など積み重ねられて行った雪はどんどんしまり、もはや雪という概念を超えて石のようにも鉄板のようにもなった。もうスコップでは歯が立たず、鶴嘴や鋸を使って割ったものを川や用水などへ流すのである。
 せっせと雪を割る人からは、雪を怨むような雰囲気は感じられない。その人の頭や肩や腕に降り積もる春の淡雪は、あたかも戯れて纏わりついて来るかのようである。そして、そんな光景を、飽かずに眺めている普羅が居る。


< 普羅28 前田普羅の「寒雀の闘い」>

 今回は、普羅の「寒雀」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p38) 寒雀身を細うして闘へり

 世の中が変わろうと、動物たちの弱肉強食という生態系の過酷さは変わらない。小さい雀が生き残って行くことは大変なことと思う。雀は蝉や蜻蛉や蝶を襲うが、むしろ強者に襲われることが多い。鷹や梟などの猛禽は言うに及ばず、猫や鵙などにも常に狙われる。警戒心が強い雀が人間社会に接近しているのも、大きな鳥などの外敵から身を守るためではなかろうか。とりわけ獲物のない寒中は、否が応でも飢えを耐えて闘う季節となる。
 寒中のふくら雀が「身を細うして闘へり」というところに、一句の慄然とした劇的さがある。初見時には、空中で鵙などに襲われて必死に闘い地に落ちた寒雀が、末期となるかもしれない防衛戦に身をあらんかぎりに研ぎ澄まして臨もうとしている、そんな状況を想い描いた。が、大正10年発表のこの句は、後に普羅自身が鎌倉円覚寺にて目撃した2羽の雀の闘いである、と書いている。自句自解の難しさを痛感するのだが、句自体は雀同士の闘いではなくて命を懸けた強敵との闘い、と読ませるだけの切迫感と力強さを持っており、この句が普羅の代表作の一つであることに何ら変わりはない。『普羅句集』所収。


< 普羅27 前田普羅の「お正月」>

 今回は、普羅の「お正月」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p57) 大雪となりて今日よりお正月

 昭和9年の正月は大晦日の昼ごろから降り出して大雪となった。当時は今とは違って掛け取りの時代である。大晦日ともなれば、掛け売りした代金を受け取ろうと掛け売りがやって来た。そんな酒屋とのやりとりなどもユーモラスに書き残している普羅であるが、一文は次のように結ばれている。「元日とは云へ余りに静かだ。噴井の音も含み声で耳に来る音は一つもない。雨戸を開けると昨夜からの粉雪は霏々として降って庭は二尺近く積って居る。水仙も菜畑も雪の底、杉も二三本は雪の中に曲り込んで居る。世の中の一切の用が済んだ様だ。又一切の用がはじまる様だ」と。
 普羅の句としては穏やかで優しさに包まれたものだ。そして何よりも、降る雪を瑞兆とするような弾んだ気分に満ちている。筆者としては、この雪が、越中の地に国守として5年間過ごした万葉歌人、大伴家持の歌「新(あらた)しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よごと)」の雪と重なってくる。「いやしけ」とは、ますます重なれ、の意味。
 雪の詩人としての一面も持つ普羅ゆえに、降る雪に託す思いも、むべなるかなである。『新訂普羅句集』所収。


< 普羅26 前田普羅の見つめた「冬枯れの美」>

 今回は、普羅の「冬枯れの中に見つめた自然美」を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p76) 枯れて月にも折るる響きせり

 飛騨では救荒作物としての稗が目に入ったことであろう。当然のことながら普羅も詠んでいるが、この句の「月にも折るる響きせり」には驚くばかり。月下の枯れた稗を句材にかくも格調高く神韻たる世界を打ち立てる、いわば立句をなす快感を味わわせてくれる一句である。所収する『飛驒紬』には「草木枯るる」と前書きがあって、「稗枯れて」はあくまでも冬枯れの中でのことであり、「月にも」が冬の月であることが明白となる。直ぐ後には「鉦叩しきりに叩き飛騨枯るる」が置かれているが、この「飛騨枯るる」という感覚が掲句の「月にも折るる響き」を鑑賞する上で大いに助けとなるように思う。
 冬枯の透徹した厳しさの中にある自然の美を愛し、それを見据えんとした普羅であった。それは、「茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る」や「枯れ澄みて落葉もあらず黒部川」などの句でもうかがえる。枯れ極まった四囲を「飛騨枯るる」とまで喝破し、己が昂揚感を枯れた稗に託して月光にも折れて響かせる、そんな枯れ稗を厳かに現前せしめうるところに普羅俳句の真骨頂があろうか。


< 普羅25 前田普羅の「旅人」>

 今回は、普羅の漂泊への思いを、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p75)  旅人は休まずありく落葉の香

 この句は不思議な位置付けの一句といえる。今日的には『飛驒紬』(昭和22年6月刊)所収として整理されているが、実はそれに先立つ昭和21年12月刊『春寒浅間山』の扉に、すなわち「序」の前頁に、染筆としての「旅人は休まずありく落葉の香 普羅」が掲げられているのである。畢竟、普羅の生涯を貫く「休まずありく」なのであろう。
 「旅人」は普羅自身と捉えてよいであろう。普羅には、「旅人にねぎらい顔や麦叩き」「旅人に机定まり年暮るる」「旅人にやがて淋しき清水かな」のように自らを「旅人」と呼ぶ句が少なくはない。富山を永住の地と決めた普羅であったが、その本性は風狂の徒としての漂泊を抑えがたき心であったと思われる。「休まずありく」は頑健さの表れでもなんでもない。漂泊精神の発露による、おのずからなる哀しい歩みである。「歩く」を平安時代の女流調である「ありく」と好んで詠んだのも普羅作品の特徴である。この句に沈鬱さが見えないのは、調べの軽やかさと結びの「落葉の香」の働きによろう。陽光の中で香り立つ落葉、その幾重にも重なり合った色彩の綾なども、歩を急ぐ足元を飾ってくれている。


< 普羅24 前田普羅と「小さな生き物」>

 今回は、普羅の見つめる「小さな生き物」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p80)  蟷螂の怒りて草を落ちにけり

 昭和21年の作にて丁寧な前書きがある。「9月7日北陸荘句会。此の日廣島雲山君より刻石届く、著者検印とす」というものだが、一句の内容には関係ない。たまたま記録に留めたいことがあって句に添える、その種の前書きの典型的な例である。
 一読、若き時代の句のような、社会の非条理や矛盾に苦悶した自らを赤裸々に詠んだような雰囲気もあるが、昭和21年といえば普羅も還暦を過ぎている。さすがに「人殺す我かも知らず飛ぶ蛍」のような句でもなかろう。「蟷螂」の真に迫った写生句のようでもある。が、「蟷螂の怒りて」は、蟷螂の姿を借りた普羅自身のこころのようにも思えてくる。そう解釈したいがための深読みに過ぎるかも知れないが。
 それはさておき、蟷螂のような小さな生き物を見守る普羅の俳句世界についても触れなければならない。それは、「膝折れの蛼も啼け十三夜」「かへり来て顔みな同じ秋の蜂」「梅雨の蝶たかく揚りて風に遭ふ」「葭切や郭公や梅雨の風に飛ぶ」などというもの。そこには、小さないのちの在り様を思い、その営みの世界に埋没している普羅がいる。


1 2 3 4