1924年(大正13年) 俳誌『辛夷』を創刊しました(題字:高浜虚子)
1929年(昭和 4年)前田普羅が初代主宰となりました
1946年(昭和21年)棟方志功より俳誌『辛夷』表紙絵の提供を受けました
1954年(昭和29年)中島杏子が第2代主宰となりました
1963年(昭和38年)普羅文学碑を富山城址公園に建立しました
1972年(昭和47年)『定本普羅句集』を発行しました(辛夷社)
1976年(昭和51年)普羅塚を高岡市営二上霊苑内に建立しました
1980年(昭和55年)福永鳴風が第3代主宰となりました
2007年(平成19年)中坪達哉が第4代主宰となりました
2010年(平成22年)俳誌『辛夷』通巻一千号記念特集号(2月号)を発刊しました
2015年(平成27年)皇太子殿下(今上陛下)が国連本部の「水と災害に関する特別会合」で普羅の句を紹介なさいました

1924年(大正13年)俳誌『辛夷』創刊

<創刊号>

 大正13年1月石田露泣、玉島謙郎らにより金沢市において創刊されました。雑詠選者は、池内たけし、前田普羅は「焦鈴舎句屑」5句を寄稿しています。翌年の大正14年1月、富山県の八尾町に発行所を移しました。

第一巻第一号
題字 虚子

第一巻第一号 題字 虚子

創刊新年号目次
虚子、たけし、秋櫻子、普羅らの名が並ぶ

創刊新年号目次
虚子、たけし、秋櫻子、普羅らの名が並ぶ

近 詠

虚子

山茶花の莟のそばの花崩る
山茶花や或時折りて挿しもする
垂れ菊の上枝の花の霜枯ぬ

(虚子選)たけし

懐ろや懐炉さし入れとり出だし
炭取の少し汚れて新らしき 
我宿や鼓をあぶる火鉢あり
大根積む車ばかりに出逢ひけり
短日や綺麗に掃いて庭のあり

辛夷創刊号1ページ目

<前田普羅の寄稿5句>

焦鈴舎句屑
   南白亀川畔
  尻あげてあかねに染みし蜜柑かな
   門前に立つ
  土の上に土の色なるばつたかな
   屋 後
  鉄砲風呂冬日のなかにころがれり
   庭 前
  籾干すや仏の御領百莚
   十一月某日大雨、虚子先生に従ひ清水谷句会に臨む
  松炭の燃ゆるに焦げし火鉢かな

<創刊に当たって>

 創刊号の選者である池内たけしは、「辛夷」の投句者に向けて、「北陸らしい句をつくる」大切さを以下のように述べています。

「選 後 に     たけし 」(抜粋)

 辛夷は辛夷だけの特徴を以って進み度いものである。投句家諸君も願わくは北国気分の充ちた句をなるべく作られて投じられたい。仮に雪という句を作る場合にも東京にいても作れそうな雪の句は駄目である。北国らしい雪気分の句でなくてはならぬ。辛夷の雑詠を見ると、如何にも北国らしい心持がするというようにありたいものである。

(中略)

 北海道にいれば北海道らしい句、北陸にいれば北陸らしい句をつくるという事は尤も其人の生活がよく描き出される事になる。兎角其地方に住っていると、見るもの聞くものが珍しくなくって仲に思うように句にならぬという事を屡々耳にするが、其は唯単に表面の事実にのみ捕われるからである。諸君が静に馴れ親しんだ馴れきった生活に心を浸したならば其処には何か必ず得るところのものがあるに違いないと思う。

 今度私は投句中にそうした句が見当った節は特に抜き出して別に載せて見ようと思う。

 諸君北陸の句を大に作り給え。

<誌名の由来>

 『辛夷』の誌名は、富山市八尾町角間の八幡宮の参道にある辛夷の老大樹に由来します。『辛夷』創刊以前から、八尾町の橋爪巨籟を中心とする「二百十日会」が、俳人池内たけしの指導を受けており、創刊前年の4月17日に、たけしや創刊に携わった人々を招いて辛夷の下で句会を開きました。その折の花盛りであった辛夷の美しさに皆が魅了され、誌名に採り入れられたということです。

富山市八尾町角間の八幡宮の参道にある辛夷の老大樹
富山市八尾町角間の八幡宮の参道にある辛夷の老大樹

1929年(昭和 4年)前田普羅、初代主宰となる

秋風の吹きくる方に帰るなり 普羅

前田普羅
前田普羅

明治18年2月18日生(諸説あり)。高浜虚子門。ホトトギス誌に「大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎」と推賞される。昭和4年より「辛夷」を主宰、経営に当る。『定本普羅句集』(辛夷社)に全作品を納む。

昭和29年8月8日歿。

1946年(昭和21年)俳誌『辛夷』、棟方志功より表紙絵の提供を受ける

 棟方志功は、まだ無名に近かった昭和20年4月、戦火を避けて家族で富山県福光町(現・南砺市)に疎開しましたが、その直後の5月に東京大空襲で自宅とともに多くの版木が焼失してしまいました。それから東京へ戻るまでの6年8カ月の福光時代は、世界的に評価された「女人観世音板画巻」の制作や、「世界のムナカタ」の代表作と言われる「釈迦十大弟子」の両端の二菩薩(東京大空襲で焼失)を彫り直すなど、世界に飛躍する直前の重要な時期となりました。              

 福光での棟方志功は地元の人々や近隣に疎開していた様々な芸術家と交流を深め、前田普羅とも親交を結びました。そして普羅の畏友となった棟方志功は、昭和23年に普羅の俳句を刻した板画句集『栖霞品(せいかぼん)』を発表しています。 

 また、普羅から俳句を学んだ棟方志功は自ら辛夷福光支部を発足し、支部長として句作に励みました。さらに社賓同人として俳誌『辛夷』へ文章や句を寄せ、実筆の題字や表紙絵を提供しました。現在の『辛夷』は、それらの作品を年ごとに変えて表紙絵とし、ページのところどころに、棟方志功の作品を載せています。

〇棟方志功の句 

立山の北壁削る時雨かな
 福光町「瞞着川(だましがわ)」三句
渦置いて沈む鯰や大月夜
水底の大石軽ろむ十三夜
名月やこの夜限りの大鯰

俳誌「辛夷」

1954年(昭和29年)中島杏子、第2代主宰となる

夏山や地獄を抱きて紺青に  杏子

中島杏子
中島杏子作品

明治31年10月20日生。大正15年前田普羅に師事。山岳史を研究「黒部奥山と奥山廻り役」を著す。昭和29年8月普羅を継ぎ「辛夷」を主宰する。

句集「花杏」、「親不知」、「中島杏子句集」等がある。

昭和55年4月2日歿。

1963年(昭和38年)普羅文学碑を富山城址公園に建立 

文学碑右側棟方志功版画

右側 棟方志功版画
左側 普羅直筆句 

右側 棟方志功板画

右側 棟方志功板画 (銅板レリーフ)

文学碑 裏側

文学碑 裏面

1972年(昭和47年)『定本普羅句集』発行(辛夷社)

1976年(昭和51年)普羅塚を高岡市営二上霊苑内に建立 

普羅塚

普羅塚

立秋忌供養(北日本新聞2019/08/07)

立秋忌供養(北日本新聞2019/08/07)

 普羅塚は高岡市城光寺の二上霊苑に建立されました。そして前田普羅の命日の8月8日(立秋)には、花や野菜を供え、般若心経を唱えて、立秋忌供養を行っています。そして、お参りの後には、記念句会を開いています。

 2019年 天位 普羅塚の裏が好きなる鬼やんま  成重佐伊子

 2020年 天位 普羅の忌の雨に色足す供花あまた 二俣れい子

 また、立秋忌に合わせて、中坪主宰の「雑念の合掌なれど立秋忌」が、公益社団法人俳人協会のホームページの今日の一句として掲載されました。(2019年)

1980年(昭和55年)福永鳴風、第3代主宰となる

稲育つ風ちりちりと鳴るように  鳴風

福永鳴風
福永鳴風

大正12年2月27日生。昭和21年普羅・杏子に師事。昭和55年4月杏子を継ぎ「辛夷」を主宰する。

句集「杉と泰山木」、「続・杉と泰山木」、「松と泰山木」がある

平成19年6月25日歿。

2007年(平成19年)中坪達哉、第4代主宰となる

月光にわが正体を晒しけり  達哉

昭和27年2月13日生。昭和57年福永鳴風に師事。平成19年6月鳴風を継ぎ「辛夷」を主宰し現在に至る。俳人協会評議員、同富山県支部長、富山県俳句連盟会長、日本ペンクラブ会員。

平成23年3月評論「前田普羅その求道の詩魂」で俳人協会第25回評論賞受賞。

平成28年11月俳人協会発行「自註現代俳句シリーズ」12期8『中坪達哉集』発刊。

             (他、詳細は主宰プロフィール参照)

中坪達哉
中坪達哉

2010年(平成22年)俳誌『辛夷』通巻一千号記念特集号(2月号)発刊

ご 挨 拶    

~「辛夷」一千号その俳句世界~

 今、私たちは「辛夷」一千号を手にしています。一千号へ向けてともに歩んできた同人誌友のみなさんと喜びを分かち合いたいと思います。大正十三年正月の創刊以来、一千号とは大変な数字です。まことに地味な俳句雑誌が月刊誌として発行を続けて八十六年の歳月を刻んだことは驚嘆に値するものでしょう。手探りしながら創刊にたずさわった当時の人たちは、今日、私たちが一千号を手にしている光景を想像しえたでしょうか。夢にも思わなかったことなのかも知れません。誌名の由来となった辛夷老大樹も、富山市八尾町角間の地にある八幡宮にて今もいのちの営みを重ねています。創刊前年の大正十二年四月十七日に、辛夷大樹としての名に恥じぬ見事な花盛りで創刊にたずさわる人たちを堪能させた、その老大樹の花を今も仰ぎ見ることができることも嬉しいことです。

 一号また一号と今日まで営々と発行し続け誌齢を重ねて来た、その継続力、そのエネルギーはいずこより生まれ出たものでしょうか。幾度となく発行が危ぶまれる時期もありました。が、そうした事態を乗り越えて発行を続けてきました。それは、「辛夷」が「辛夷」として存在することの意義と価値が必ずやあったからに他なりません。「辛夷」に集った同人誌友一人一人にとっての「辛夷」の俳句世界があったからに他なりません。非情ともいえる歴史的な時間の推移にも耐えて生き続けてきた「辛夷」の精神風土があったからに他なりません。「芸術のための芸術でなく、人生のための芸術」という前田普羅の言葉に象徴されるような俳句の世界が「辛夷」にあった、というか、ひたすら求めてきた、求めやまざるものがあった、からではないでしょうか。

 辛夷人ならば普羅の次の言葉を覚えておられることと思います。新しく入られた方はお耳にされたことがあったでしょうか。

わが俳句は、俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず

……こは俳句をいやしみたる意味にあらで、俳句を尊貴なる手段となしたるに過ぎず

                    前田 普羅  

普羅は文章家としても偉大な存在であって多くの文章を遺していますが、この言葉ほど普羅俳句の真髄を端的に表現したものはないと思います。初学時代にこの言葉を聞いたときの驚きと感動を今も忘れはしません。が、実に難解なものでもあります。この解については一千号記念大会に合わせて発刊する拙著『前田普羅その求道の詩魂』で詳しく述べてありますが、普羅の境地は玄妙にして高邁なものです。それは宗教的な世界にも通じるものであって、普羅にとって俳句は求道精神のあふれたものと言えるのです。

 辛夷人として私たちの今後の作句にあたって思うことは、先ず第一に、普羅の高邁な作句精神を引き継ぐ者としての自覚を持ち、日々の句作は必ずや人生を豊かにするものでなければならない、という思いを忘れないことが大事です。何も普羅のような求道の人生を歩めと勧めているわけではありませんから、ご安心下さい。普羅という方は偉大なる文学者であるがゆえの常人を超えた大きな人生の苦悩を抱えて居られました。俳人普羅の厳しさと哀しさは、宿命として負った人生の苦悩に立ち向かうためのものであった、と私は理解しています。そんな普羅の求道精神のあふれた俳人生を真似ることはできませんし、また、その必要もないのです。ただ、先に紹介しました「芸術のための芸術でなく、人生のための芸術」という普羅の言葉をもう一度、思い起こして下さい。そして、「辛夷」が今日まで営々と発行し続けて来られたのも同人誌友一人一人にとっての「辛夷」の俳句世界があったからではないか、と申し上げたことを思い起こして下さい。日々の句作は暮しの慌しさの中に埋没するかのような、まことに地味で小さな営みかも知れません。が、日々の句作は必ずや人生を豊かにするという高邁な作句精神を忘れないようにしたいものです。

 第二には、普羅の唱えた「地貌」という言葉に象徴される風土性の表れた俳句を作ることです。地貌こそはそこに暮す人々の精神文化にまで影響を及ぼすものであるから、それぞれの拠って立つ風土の美しさや厳しさを感じることができる句を作るべし、との「地貌」論は昭和二十一年の句集『春寒浅間山』の序文の中で展開されています。今日から思えば、当時の日本人の暮しは現代社会とは比較しようがないほどに豊かな自然に恵まれて地域性に富んだものであったはずです。そんな時代に「地貌」論が唱えられているということは、これは時代を超えた俳句の本質にも迫る重要な教えなのだと思います。山や河や海を写生せよ、という皮相なものでは決してありません。自らが拠って立つ風土を愛し、そこでの感性を磨き、自らの暮しを見つめよ、ということではないかと思います。

 そして、第三には、丈高い立句性の追求であろうと思います。俳句も文芸という芸の一つですから言葉や修辞の修練に心を砕くことは言うまでもありません。が、その根底には先に申し上げた第一、第二のこころがなくてはならない、と考えます。とりわけ「辛夷」といえば、あの普羅の格調高い俳句、とイメージされてしまいがちですが、負担に思うことはありません。調べもよくて格調高い作品を、などとあまりに意識しますと、たちどころに句作に行き詰まることでしょう。古典や近現代の作品に努めて触れながら地道に倦まず弛まず進んで行けば、いつか丈高い格調のある立句も生まれることでしょう。

 私は平成十九年の六月に主宰に就任いたしましたが、以来、「わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず」の普羅の言葉を、従来にも増してこころに銘記しています。ただ、この言葉はあまりにも重くて厳しいものです。芸術としての俳句を究めんとする、あまりにも厳しい求道の道を行かんとするものであります。

 私はこうした高邁な普羅の作句精神に適いつつも、よりわかりやすく私たちのこころの中に打ち立てたい言葉として、次のように申し上げて来ました。

   俳句を愛する。しかのみならず、人を愛する。     中坪 達哉

これは、私たちは何のために俳句を作り続けるのか、という問い掛けにも答えるものでもあります。そして何よりも、普羅の言葉の理解と実践に資するものと思うのです。俳句をしていて良かった、「辛夷」に入っていて良かった、という俳浄土を願うものなのです。

 今、この一千号を謹んで泉下の普羅先生、中島杏子先生、福永鳴風先生、社賓同人であられた棟方志功先生、長年編集長を務められた中川岩魚先生、そして多くの同人誌友に捧げます。と同時に、私たちをお守り下さいますよう切にお願い申し上げまして創刊一千号を迎えたご挨拶といたします。合掌。

   平成二十二年一月六日   辛夷社  主宰 中坪 達哉  

2015年(平成27年)皇太子殿下(今上陛下)、国連本部で普羅の句を紹介

 2015年11月18日のニューヨーク国連本部で行われた「第2回国連水と災害に関する特別会合における皇太子殿下基調講演」で、徳仁皇太子殿下(今上陛下)は、「人と水とのより良い関わりが構築されることを期待しています」とご講演を締めくくられた際に、前田普羅の句を紹介なさいました。

(宮内庁HPより引用)

 終わりに,私の好きな前田普羅による俳句を読んで,この講演を締めくくりたいと思います。

 「立山の かぶさる町や 水を打つ」

 立山が覆い被さるようにそびえる富山の町で,人々が夏の暑さをやわらげるために通りに水を打ち,涼をとっている情景が目に浮かびます。山から流れ出る水は飲み水として,あるいは農業のために私たちに多くの恵みをもたらします。しかし,水は時に不足したり多すぎたりし、人々に大きなダメージを与えます。この句にあるように,人々がどこでも水とともに平和にゆったりと過ごせる世界を実現できるよう,私も今後とも取り組んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

<英文>

I would like to conclude my lecture by reciting my favorite Haiku by Fura Maeda..

Overlaying the quarter

Is Mt. Tateyama in the background

There, water is sprinkled

To cool the streets

The poem reminds me of a town of Toyama where majestic Mt. Tateyama stands in the background, overlaying the town. People sprinkle water to enjoy cooled streets in the summer. Water benefits us in many ways. Mountain streams are turned into water for drinking and agriculture. Shortage or excess of water, on the other hand, has a negative impact on people and their lives. I will continue my efforts to bring about a world where people can live peacefully and happily as depicted in this poem.

Thank you.