<草紙81> 「熟柿と寒雀」(富南辛夷句会便り)

 山も田も雪一色になると、枝に採り残された熟柿は雀たちのご馳走だ。「雀たち、昨日一日で全部食べてしまったわ」と厨から妻の呟きが聞こえたので、窓から土手を見ると、熟柿がすっかり無くなっていた。「庭の柿は、どうだろう。棹が届かなくて100個ほど残っていたはず」と、玄関から出てみると、果たして雀が群がって賑やかにつついている。庭には熟柿の残骸が散乱し、独特の強い匂いを放っているが、雀たちの見事な食べっぷりを微笑んで眺めていた。

 が、ふと思った。雀たちは例年になく苦労しているのだ。昨年の秋は、熊の出没が頻発し、早期の柿捥ぎや柿の木の伐採が奨励された。人の命に係わることなのでやむを得ないと思ったが、今、里全体に少なくなった柿の実に嬉々としている雀たちを目の当たりにすると、複雑な心持ちだ。人と自然との共生のバランスが崩れている。

  寒雀群れて熟柿を食ひきそふ 康裕

 さて、2月の句会だが、正月より強い寒波が2度来たので、寒、雪、雪掻、雪晴、氷柱の句が見られたが、立春、冴返る、春寒、雪解、紅梅と早春の句も多く、明るい句会となった。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

  立春の暁の時計なりにけり          

  春寒し閉ざさで眠る停車場

  紅梅の散る時薬効きそめし 

                               康裕


<草紙80> 「立山道の道標」(富南辛夷句会便り)

 富山地方鉄道「大川寺駅」近くの交差点の角に大きな岩の道標が立っている。道標には「左立山道 右ゆみち」とあり、立山登山道と立山温泉の別れ道にあったものだ。道路整備などにより現在の場所に移設されたものだが、道標の裏には全国からやって来た行者たちの名前が刻まれていて、立山詣が盛んだったことがわかる。建立されたのは、1816年(文化13年)頃で、先のNHK大河ドラマ「べらぼう」で登場した若き将軍、第11代将軍徳川家斉(吉宗の曾孫)の時代のようだ。

 当時を偲び、立山道の方角を望むと、歩いて渡ったという常願寺川、対岸にある雄山神社前立社壇、そのはるか先、立山(雄山)頂上の雄山神社峰本社へと続いていることがよくわかる。ここを通って行った人達の覚悟や賑わいが伝わってくるようだ。立山道の道標について詳しく知りたくなってきた。新年を迎え、今年は先ず、周辺の道標や石仏をたどることから始めてみようと思う。

 さて、初句会だが、正月、乗初、初詣、雑煮、二日、初夢、三日等の迎春の句や、雪、雪搔等の雪国らしい句が投句された。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

  子はすでに童話は読まずお正月

  切餅の切口ひかる二日早や

  紫に暮れ行く雪の工夫かな

                               康裕


<草紙79> 「満天星つつじの雪囲」(富南辛夷句会便り)

 11月最後の土曜日。学業の合間に県外から孫がやって来た。満天星つつじの生垣の雪囲を私とするためだ。空は気持ちよく晴れ渡り、満天星つつじの紅葉が明るく光っている。孫は、長さ5mほどの竹の束を、納屋から軽々と抱えて運び出す。さあ、作業開始だ。まず、竹を1/3ずつ重ねて7本を荒縄で連結していく。それらで生垣の表側と裏側の2方面から挟み、所々に打ち込んである杭に縛り付けた。生垣は背丈ほどあるので2段組となる。

 最後は、先に孫が両手を広げて計って切っておいた2尋の荒縄たちの出番だ。まず表側にいる孫が荒縄を半分に折り、輪になった部分を竹に巻き付け、その輪から荒縄の両端を引き抜いて、裏側にいる私に渡す。受け取った私は男結びで竹にきゅっと締め付ける。孫の作った荒縄の長さはちょうどいい具合だ。これで表側と裏側の竹がしっかりと繋がって雪の重みにも耐えられるようになった。こうして生垣の端まで所々を縛っていったのだが、孫と私の連携プレーは次第に調子が出てきて、どんどんスピードアップしていった。翌日には庭の木々の雪吊も完成した。果たしてその週末に初雪となり、今年もどうにか間に合った。孫に感謝だ。

 さて、納会となった句会だが、貴船菊、柚子、紅葉、冬支度などの晩秋の作品に続いて、落葉、時雨、霜、初雪、賀状書く、年の暮などを詠み、一年を締めくくった。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

  落葉して杉あらはるる山路かな 

  時雨るるや水の流るる竹林 

  うしろより初雪ふれり夜の町 

                               康裕


<草紙78> 「熊出没」

 私と熊との出会いは有峰。薬師岳の麓にある標高約1000mの高原盆地だ。数年前の秋、有峰湖周辺を吟行する「有峰俳句の会」に参加し、熊棚や熊の糞を見、子熊が木を降りてくるのを初めて見た。その時に作った3句。

  見えるはずの薬師岳の肩に熊棚は

  秋しぐれ百歩歩けば熊の糞

  やや寒の大樹を降りる熊の爪 

 その頃の有峰は団栗や山毛欅の実が多く、「熊鈴を鳴らしながら遊歩道を歩けば、熊が察知してくれ、熊が身を隠す」という状況であり、正しく警戒すれば、熊との共生が可能だと思っていた。

 が、今年は団栗や山毛欅の実が凶作で、私が住んでいる地域でも、連日、熊出没情報を聞く。緊急対策として、柿の木の伐採が推奨されているが、子供のころ「学校から帰ってきたら甘いものが食べられるように」と父母と一緒に柿の木を植えたことを思うと、いきなり伐採とはいかない心情だ。せめてと思い、柿捥ぎに精をだしている。

  繰りかへす市の広報は柿捥げと

  孫ら来て柿を捥がんと棹三本

康裕


<草紙77> 「晩秋」(富南辛夷句会便り)

 10年ほど前から、体育の日(スポーツの日)を目安として冬囲の準備にとりかかっている。先ずは、庭師が入り、庭木の枝払いをする。庭木がすっきりとした後で、私が雪吊りや生垣の雪囲を行うのだ。先日、我が家の物干し場に、鵙が姿を見せた。はや晩秋だ。「立山に初冠雪」のニュースを聞く日も近くなってきた。夏が終わったばかりの気がするが、頭を切り替えて冬への備えをスピードアップしていかなくては。今年も頑張ろう。

 さて、句会だが、秋耕、秋の色、秋麗、仲秋、虫、コスモス、狗尾草、木犀、秋の雲、栗、穭田と仲秋から晩秋にかけての作品が多かった。また、熊の出没を詠みこんだ作品もみられた。今年は、句会のある大山会館や小学校の近く、住宅地にも出没し、子供達の学校生活に影響が出ているという。警戒せねばと思う。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

   虫なくや我と湯を呑む影法師 

   月代をはなれ流るる秋の雲

   美しき栗鼠の歯形や一つ栗

康裕


<草紙76> 「朝顔の頑張り」(富南辛夷句会便り)

 「朝顔も熱中症か」と驚いて〈草紙50〉に書いたのは、令和5年8月。翌年は、朝顔のプランターを午後からの日当たりが少なくなる家影に置き、猛暑日は葦簀を掛けて対処した。2年目の今年は、もう一歩対策を進めて、水を保持しやすいように大きいプランターに変えて土をたっぷり入れた。また、朝顔の変化に気づきやすい場所を探して、窓からよく見える生垣に朝顔の蔓を這わすことにした。さらに葦簀を生垣に立掛けたので、広げたり閉じたりと日差しの調整が簡単にできた。6月21日、早くも猛暑日となり、雨も降らない日が続いたが、朝夕の水遣りで朝顔は頑張ってくれた。

 ある朝、妻の声がした。「朝顔、咲いた、咲いた。随分咲いたねぇ」と。およそ70個だ。次の日から、花数が増えてきた。9月半ばの今でも100個を超えている。朝顔、頑張れ。我が家の朝は、立山連峰を背に涼やかに咲いている朝顔から始まる。

 さて、今もなお猛暑日が続く中の句会だが、季節はいよいよ秋へ向かい始めたようで、朝顔、茗荷の花、虫、蟋蟀、風の盆、秋刀魚、蜻蛉、ばつた、稲刈と、皆が秋の季語で詠んでいた。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

   明月のとどかぬ虫の高音かな 

   蜻蛉や糸瓜をさらす水広し

   土の上に土の色なるばつたかな

康裕


<草紙75> 「朝の音」(富南辛夷句会便り)

 朝の6時に寺の鐘が鳴ると山里が次第に目覚めていく。私は庭の草むしりを始める。静けさの中に、鉄路の音、通勤車の音などがだんだん増えてくる。7時には、村のチャイムで「浜辺の歌」の曲が流れる。私は心の中で歌詞を口遊む。今朝も「あした浜辺を さまよえば 昔のことぞ しのばるる 風の音よ~ 雲のさまよ~」と。「雲!」、思わず大日岳を見上げた。「秋の雲だ」。8月27日、昨日までの峰雲ではなかった。朝の草むしりも悪くない。

   朝六つの鐘に始むる草むしり   康裕 

 さて、今もなお猛暑日が続く中の句会では、炎天、極暑などの季語が多く、暑さ疲れが見えたが、さすがに俳人の感性だ。法師蝉、新涼、葛の花、秋の蜂など、ほんの少しの秋への変化をとらえていた。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

   新涼や豆腐驚く唐辛子

   葛の花龍女が渕に径古りぬ

   かへり来て顔みな同じ秋の蜂 

康裕


<草紙74> 「有峰『俳句に親しむ会』に参加」(富南辛夷句会便り)

 6月29日、今年の吟行地は有峰ダム湖に突き出ている砥谷半島。森の中の遊歩道は、水楢や山毛欅の木洩れ日が心地よく、蝦夷春蝉が今を盛りと鳴いていた。もちろんダム湖をかこむ山々の緑は言うまでもなくまぶしい。

 先の富南辛夷句会で中坪主宰が、吟行に臨む心がけとして「心を無にし、五感を信じて自然(物)を観察することです。そうすると自然の方から語りかけてきます。句作を急ぐと表面だけしか見えません」と教えて下さった。これまでも、現地で、五感に触れたものを詠んできたつもりだったが、今一つしっくりこなかった。自然の方からの語りかけを待ちきれなかったのだろう。そこで、今回は「五感を信じ、句作を急がずに」と心に決め、遊歩道を進み、立ち休み、山毛欅大樹に顔を寄せていると、陰から黒揚羽がふっと現れた。黒揚羽が授けてくれた一句。

   立ち休む山毛欅の陰より黒揚羽   康裕 

 さて、句会は、茂り、蛇、蜥蜴、虹、半夏生、百合、合歓の花、日傘、青葡萄、ハンカチ―フ、夏休、極暑など、夏の暮らしの身近な季語が並んだ。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

   帰らめと目覚むる夜半の百合匂ふ 

   神通の濁りうづまき合歓垂るる  

   西空にうつるものなき大暑かな  

康裕

※富山県農林水産公社主催 有峰『俳句に親しむ会』

講師 富山県俳句連盟会長 中坪 達哉


<草紙73> 「中坪達哉主宰を迎えて」(富南辛夷句会便り)

 北陸地方は6月10日梅雨入りとなり、警報級の大雨となった日もあったが、主宰は、「晴れ男」らしく、今日の17日はよく晴れて夏雲が眩しいほどだ。

 今月の投句では、夏の里山の花や草、生きもの、天文など多彩な季語が並んだ。主宰はそれらの句の背景を聞きながら、作者が思いを止めなかった句作のポイントを拾いあげて丁寧に添削をしてくださった。

 特に主宰は、里山地域の暮らしぶりが詠まれていること、さらに、その暮らしの中で、川底のヤゴや、蜥蜴の尾など、珍しい季語や事柄を積極的に詠んでいることを評価してくださった。そしてこれからも、このような暮らしに根差した句を詠むよう心掛けてほしいと話された。

 また、作句の留意点として、

①珍しいものだからと、観察したものを全部詠み込むと説明になること。

②口語調の言葉を使った句が見受けられたが、辛夷俳句では、文語・旧仮名遣いの表記が詩の言葉として相応しいと考えていること。

③五七五の語順を入れ替えてみて、調べを口に出して整えること。

などを挙げられた。

 こうして皆の一人一人が、自分の句の良いところ、工夫するところ、作句の視点などの「今日の句会のお土産」をいただいて、次回の主宰との句会を楽しみにしているようであった。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

  裸子のかくるるばかり二番蕗 

  野茨に鼻つき出しぬ近江牛  

  日もすがら木を伐る響梅雨の山

康裕


<草紙72> 辛夷同人 寺﨑治郎氏の空襲体験記「一冊の歳時記」(『辛夷』令和7年5月号掲載 )

 令和7年、戦後80年の節目にあたって「富山大空襲を語り継ぐ会」の取り組みを新田知事が支援する考えを示し、後押しする議員連盟が発足したという報道があった。「富山大空襲を語り継ぐ会」からは、常設展示施設の設置をはじめ、大空襲を含めた戦災資料の収集・保管や語り部活動への支援が要望されたという。

 そのような戦災資料展示館の一つが、東京の江東区にある「東京大空襲・戦災資料センター」である。そのセンターでつくられた『東京大空襲・戦災誌』全五巻がある。その第一巻(1973年刊)に、辛夷同人で本所区向島に住んでいた寺﨑治郎氏の「一冊の歳時記」が収録され、寺﨑氏直筆の原稿もセンターに保管されている。その内容は、まさしく「空襲による炎のなか、どのような人たちが、どのような体験を強いられたのかを記録した」そのものだ。(〈 東京大空襲80年特別展―空襲体験を記録する/伝える 〉より)

 その「一冊の歳時記」の冒頭部分に、句友の大野佳女(よしじょ)さんの栃木県の実家に疎開荷物を送る準備を終えた記述があり、【 荷物のなかには、私たちが同人としてつらなる、前田普羅主宰の俳句雑誌「辛夷」があった。お互いに欠本を補って、昭和9年頃のものから、19年4月号で休刊になるものまでの、約10年間を全部揃えて、大切に包んだものである。虚しいことと思ったが、死んでも何かを誰かに、残そうとしたために―】とある。また、寺﨑氏の自宅にも火の粉が舞う緊迫の場面では【 私は家を放棄するときにはと、いつしか書棚から一冊の歳時記をポケットに入れていた】と記されている。

 この「死んでも何かを誰かに、残そうとした」という寺﨑氏の言葉に心をとめたのが戦災誌研究会の「空襲体験記の原稿を読む会」である。その代表の山本唯人氏から「この体験記に込めた寺﨑さんの真意を知るには(俳誌「辛夷」が)大変重要なものと思われ、その所在を突き止めたく、探しています」と令和6年10月辛夷社ホームページへ問い合わせがあった。こうして私は初めて寺﨑氏の空襲体験記「一冊の歳時記」を知ることとなったのである。

 幸いにも富山県立図書館の「中島文庫」を紹介することができ、山本氏は11月に来県されて昭和9年1月号から昭和19年3月号までの『辛夷』を通覧し、寺﨑氏と、空襲体験記に登場する大野佳女さん、舟木己栖(きせい)氏の三人の掲載句や随筆、東京辛夷句会の動向などを調査された。そしてその調査報告「東京辛夷俳句会―うたのない時代への自注」を作成し、辛夷社へも報告してくださった。調査報告では「雑誌休刊後の一年八か月、俳句の創作が止んだ一時期がありました。寺﨑にとって、空襲体験記を書くとは、その俳句によってはたどれない空白の、重大な転回点を過ごした自分の姿について、俳句とは違った方法で自注するような行為だったと言えるでしょう」とまとめられている。

 ここで改めて、大先輩である寺﨑治郎氏を紹介したい。大正4年11月15日魚津市生まれ、大正13年上京。戦後の2年間を除いて墨田区向島に住む。平成19年10月逝去。中坪達哉主宰の東京単身赴任時代の句会の先生。「五岳集作家」(昭和56年)、「辛夷同人会長」。句集『浅草図絵(昭和57年)、『続・浅草図絵』(平成4年)上梓。

 また、戦争前後の『辛夷』の巻頭を飾った作品から、当時の寺﨑氏の俳風を感じてみたい。

巻頭作品(前田普羅選)          

  曼殊沙華渡船の水尾に捨てらるる(昭和14年)

  僧ヶ岳けぶり北国しぐれかな(昭和17年)

巻頭作品(中島杏子選)

  風鈴の売られゆくときりりと鳴る(昭和29年)

  かりがねや浅草図絵の中のわれ(昭和32年)

  鶏はおどろき易し麦の風(昭和32年)

  最後に「一冊の歳時記」は、寺﨑氏と恩師普羅との心のつながりを示す文章で締めくくられているので、引用する。(『浅草図絵』より)

 私は、俳句雑誌「辛夷」が休刊して以来、作句を絶っていた。しかし富山に住む前田普羅先生には、毎日のようにハガキを書いた。いずれは、路傍に横死する自分を思って、日ごとの遺書のつもりで、それを続けた。四、五日便りを怠ると、普羅先生はせっかちに催促の便りをよこした。ところが運命はどうも皮肉にできていた。八月一日の空襲で、富山市郊外の普羅居はその充棟の書とともに炎上した。もちろん私の遺書ともいうべきハガキともども。逆に焼け残って終戦の日を迎えた私の手もとに、先生のその頃の便りがいく通も残った。普羅先生は二十九年八月に亡くなられたが、その恩師の一端をしのぶために、ここに当時の一通を書きとどめたい。

 ご奮闘の程、安心しました。大野姉妹の負傷の上、貴宅に収容されたる由、何より。本日舟木君より来書、三月九日の大火災にて一家全部戦死せりとは何たる悲報ぞ、只ひとりになりたる己栖君は左記にあり

     (住所等略)

 悲報を信ぜざらんとせり、然れども信ぜざるを得ず。御ハガキにありし文「己栖のみ見かけたる人あり他不明」は早くも己栖君の大悲報を予想せしめし所、その翌日悲しき確報は来れり、照次君の二人の子供も、洋服屋さん夫婦も戦死の由なり。

 富山はまた雪ふる。今日は何事も出来ず、炬燵に面を伏せて、東京の友を思へり。治郎君シッカリやってくれ給へ、空襲では負けるものではない、負けると思った者が負けるなり 三月十六日 早々 

(東京空襲を記録する会”東京大空襲第一巻”所載)  ※『辛夷』は昭和19年4月号から休刊、昭和21年1月号復刊

 私も富山大空襲の記録資料に接する度に平和への思いを強くするが、寺﨑氏の東京大空襲の描写に生死の極限に放り込まれた感覚を、そして何より「よく生き延びてくれた」という安堵感で読み終えることができた。また、「一冊の歳時記をポケットに」という寺﨑氏の俳人たる姿に心動かされ、普羅のハガキにも普羅の温かさを感じることができた。この「一冊の歳時記」は、寺﨑治郎氏の句集『浅草図絵』(昭和57年 東京美術)の巻末に再掲載されているので、図書館などでご覧いただければと思う。また、「東京辛夷俳句会―うたのない時代への自注」のWEBページで、直筆の写真などと一緒に紹介されている。

 令和6年『辛夷』創刊百周年の年に「空襲体験記の原稿を読む会」の方々のおかげで、先達の寺﨑治郎氏の後をたどることができ、辛夷俳句の精神を継ぐ思いをもって令和7年を迎えることができましたことに厚くお礼申し上げます。

令和7年1月 岡田 康裕

「東京大空襲・戦災資料センター」https://tokyo-sensai.net/ 

「空襲体験記の原稿を読む会」 https://note.com/sensaishiken/n/nd8c3f4689687

「東京辛夷俳句会—うたのない時代への自注」 https://note.com/sensaishiken/n/nf6c0846b8ae1


<草紙71>「常願寺川の大転石」(富南辛夷句会便り)

 小学生のころ、夏休みには常願寺川の下流の浅瀬でよく遊んでいた。そこには下流にもかかわらず大きな岩があった。初夏の青空に誘われてそこへ向かってみると、大人の目にもやはり大きかった。高さ3メートル近くもある岩で、安政5年の「飛越地震」による土石流で運ばれてきたという。今では「大転石」と呼ばれ、下流域には40数個もあるらしい。

 眺めているうちに、その岩の生い立ちを知りたくなって、写真を撮って富山市科学博物館を訪ねた。同博物館には「質問コーナー」があり、館員の方がていねいに答えて下さる。岩の写真を見て「茶色であり、水平方向に層のようなものが見えるので、溶結凝灰岩でしょう。火山が噴火し、流れ出た溶岩が冷えて固まったものです。実物を見ないと判定できませんが、同色の小石を持参されるのも良いかと思います。」と説明して下さった。天候を見つつ、再度「大転石」に会いに行くつもりだ。

 さて、5月の句会だが、雉、燕、独活、蕨、酸葉、蛙、そして牡丹、蕗、麦、代田、田植などの自然を相手にした多様な季語があり、山里に暮らす富南辛夷句会の皆さんなればこその句であると思う。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。  

  奥山の径を横ぎる蕨とり

  啼き立てて暁近き蛙かな

  牡丹咲く氷見の郡の潮ぐもり 

                       康裕


<草紙70>「 紅椿 」(富南辛夷句会便り)

 4月に入ると存在感を増してくるのが紅椿だ。はち切れんばかりの蕾を見るとわくわくとした気持ちになる。そして、花びらがひとひらずつ捲るように開き出すと、鳥たちが蜜を吸いにやってくるのが楽しい。花びらに枯れ色が混ざるほどに咲き切ってぽとりと落ちるものもあれば、これから咲くと言う時に落ちるものもある。それらの落椿を熊手や竹箒で集め、手箕(てみ)に掃き入れるのだが、そのずっしりとした重さは紅椿の命の証だと感じることができる。

 さて、4月の句会だが、季語は春祭、春寒、蕗の薹、水温む、春田、田打、楤の芽、椿、四月馬鹿、日永、春愁、草餅、木瓜の花、春暁、花、桜、菜の花、春菜、春の宵などの三春にわたり、正に春を楽しみ惜しむ句会となった。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

  谷々に乗鞍見えて春祭    

  月出でて一枚の春田輝けり  

  草餅の色濃くかたく夜はふけぬ 

                       康裕


<草紙69>「 雪囲とる 」(富南辛夷句会便り)

 3月に入り、県外にいる孫からメールが来た。「学校も春休みになったから、雪囲を外すのを手伝いに行きます。」と、なんともありがたい言葉。孫は幼いころから色々な手伝いをしてくれたが、はや成人となり、ますます頼もしい存在になっている。

 初日は、小雨模様。先ず、玄関横の段柘植(だんつげ)から取りかかった。高さが3mあまりの段柘植をすっぽりと覆うように丸太10本で円錐形に組んだ雪囲だ。私は脚立に乗って雪囲の頂部の鉄線を切り、丸太を順番に解いていく。丸太は直径が5~6㎝、長さが4mもあるので結構重たいのだが、若い孫は軽々と受け取り地面に寝かせていく。雪囲いから解放された段柘植は小雨に光り清々しい姿を見せていた。

 2日目は、立山連峰の稜線がくっきりと見えるほどの好天で、家の敷地に沿った背丈ほどの満天星躑躅(ドウダンツツジ)の垣根の雪囲をとることにした。青竹を水平にして垣根の表側と裏側の2方面から挟み、所々にある杭に青竹を荒縄で締め付けたものだ。垣根の端から端まで、しかも青竹は2段組にしてあるので、縄を切り解いていくにも時間がかかる。私と孫は垣根を挟んで向かい合って作業を始めたが、孫の手は素早く、私が遅れをとることも。こうして抑えを解かれたツツジの枝には早くもほんのりと紅い花芽がたくさん付いていた。2日間の作業を終えれば「次の雪囲の時は、男結びを教えてよ」と早くも孫はやる気満々だ。

 さて、3月の句会だが、雪解、雪代、冴返る、梅、二月尽、春の雪、春の水、雪囲とる、彼岸、田打、木の芽、椿、卒業、杉の花、亀鳴く、蛍烏賊、春の暮、チューリップ、フリージア、春風などの春を読んだ句が多く、華やいだ句会となった。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

  春の雪片々として人に着く

  春水の来る音高き寝覚かな

  白きあり紅きあり君が庭椿

                       康裕


<草紙68>「 厨の窓 」(富南辛夷句会便り)

 我が家のリフォームの折に、厨の東の窓を思い切り大きくした。立山連峰からの日の出を四季にわたって見たかったからだ。日の昇る場所は日ごとにと言ってよいほど稜線を動く。今はまだ浄土山あたりだが、これから春、夏と剱岳方面へ日々動いていくのがとても楽しみだ。また先日は大きな夕日が山肌の雪に反射して、剱岳や大日岳を茜色に染めた。そしてその茜色が刻々と夕闇の色に移っていくのを飽くことなく眺め続けることができた。

 こればかりではない。思わぬ楽しみも加わった。野鳥たちが窓辺の榊の実を啄みに来るのだが、厨の窓はミラーガラス。鳥たちには私が見えないが、私は心置きなく鳥たちを見ることができる。先日は花鶏(あとり)が来て、喉の奥まで見せて鳴いてくれた。厨の窓は、私の期待以上に、私に喜びをもたらしてくれた。

 さて、2月の句会だが、立春の後、春の雪とは思えぬ大雪が降ったからだろう、冬野、雪、雪卸、焼芋、寒波、除雪車、雪掻などの冬の季語の句が半数を占めたが、二月、建国記念の日、雪解、雪崩、猫柳などの早春を詠んだ句も出句され、明るい句会となった。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

  雪卸し能登見ゆるまで上りけり

  苔つけし松横たはる二月かな

  国二つ呼びかひ落す雪崩かな

                       康裕


<草紙67>「 寒鰤 」(富南辛夷句会便り)

 富山県氷見漁港では、令和6年11月20日に「ひみ寒ぶり」宣言が出され、年明けの1月20日にシーズン終了となった。富山湾で水揚げされ氷見漁港で競られた7キロ以上の鰤を「ひみ寒ぶり」というが、今シーズンは69,351本に達し、過去2番目の記録になったという。昨年1月の能登半島地震の影響で、紅ズワイガニ、白エビなどの不漁が起き、漁業者の不安を大きくしていただけに朗報だ。

 我が家の正月は、お節に加えて、寒鰤の刺身、照り焼きなどが定番だが、今年は、県外に住む釣り好きの孫の提案で、鰤しゃぶを囲むことになった。大物は捌けないので、魚屋で5キロ程度の半身を大きく捌いてもらい、夕刻には孫の包丁さばきによる鰤の薄切りが大皿に並んだ。子供とは思えぬ出来あがりに驚いた。帰省のたびに見せてくれる頼もしい姿はとても眩しく、嬉しい限りである。

 さて、初句会の季語だが、冬の星、冬の月、冬の虹、雪、寒鰤に始まり、正月ならではの初詣、箸紙、三日、正月、初旅、読初、弓始、双六、七種、女正月などに続いて、寒の内、寒晴などを詠んだ句が出され、華やいだ句会となった。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

  オリオンの下の過失はあまりに小

  農具市深雪を踏みて固めけり

  七草や雀烏の枝うつり

                       康裕


<草紙66>「 千古の家 」(富南辛夷句会便り)

  先日、本ホームページ「四季だより」の「冬日差し(千古の家)」が目にとまり、とても懐かしい思いが込み上げた。私は40代のころ福井県松岡町(現永平寺町松岡)にある大学に赴任し、附属病院の増築に取り組んでいたので、遠方から建築関係の来客があると良くこの「千古の家」に案内していたからだ。

 「千古の家」は中世末期より現存している貴重な古民家で、国指定重要文化財となっている。とりわけ建築に携わる者にとって、豪雪地帯特有の股柱や桁、丸みを帯びた茅葺屋根などは興味深いものであった。また、裏山を借景にした庭では季節ごとに枝垂れ桜、花菖蒲、紅葉が美しい。さらにまた、いつも火をくべている囲炉裏、地元産そば粉の手打ちそばのもてなしもあり、心が和む家だった。

 さて、今年最後となった句会の季語だが、自然薯、銀杏(ぎんなん)、南天の実、鵙などの季語で秋の名残の句もあったが、いよいよ冬本番を迎え、落葉、報恩講、ストーブ、枯木、山眠る、雪、古暦、年用意などの冬の季語が多かった。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

  枯れまじるにはとこ太き垣根かな

  四五日を残して已に古暦

  夕日こそ恋しかりけり年用意

                       康裕

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<草紙65>「 主宰を迎えて句会 」(富南辛夷句会便り)

 11月8日に初冠雪となった立山連峰が窓に眩しい。本日14日は、中坪主宰を迎えての句会だ。句会に先立ち、主宰の「北日本新聞文化功労賞」受賞を祝って花束を贈り、記念撮影を行った。華やいだ雰囲気の中、主宰から一句ずつ丁寧な添削指導をいただいた。投句には秋の食べ物の季語が多く、おいしい話題で会話が弾んだ。主宰も、好物の甘柿はもちろんだが、渋柿も吊るし柿にして楽しんでいることや、道の駅では真っ先に渋柿や木通を探してしまうことなどの話をしてくださった。

 最後に、主宰から「年を取ったから良い句が出来なくなったと聞くことがありますが、年を取ったからこそ出来るようになることが多いのです。例えば、畑仕事、散歩、草花の手入れなど。これらをじっくりと味わう時間があります。また、ゆったりとした旅では、日差し、雲、風の動きなどに気付けます。忙しい若者にはできないことができるのです。いくつになっても味わうこと、感じること、それが何よりなのです。」と励ましの言葉をいただいた。

 句会での季語は、「豊の秋」らしく、芋、林檎、銀杏、栗、零余子、木通、柿などだったが、夕餉のための零余子採りや、裏山に分け入っての木通採りの句など、里山の地域らしい生活の句が詠まれていた。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。 

  芋の葉の月に面を傾けぬ

  しみじみと日を吸ふ柿の静かな

  拾ひ来て畳に置きぬ丹波栗

                       康裕


<草紙64>「 報恩講 」(富南辛夷句会便り)

 報恩講の案内をお寺の掲示板に見かけるようになってきた。このあたりでは本山である西本願寺の1月の報恩講に先立ち、10月から12月にかけて法会があり、私の門徒寺では、「ほんこさん」 と呼ぶ報恩講が10月26日に行われた。読経はご住職や付き合い寺院の住職の皆さんで、法話は布教講師がなさるが、昨年から若院(じゃくいん:住職の息子さん)よる「親鸞聖人伝絵の絵解き」が加わった。聖人伝絵は四幅の軸に描かれていて、若院が指示棒を使いながら説明してくださる。若院の良く通る声が心地よく、その穏やかな口調にも若院の人柄が表れて爽やかな気持ちになった。

   報恩講絵解きの若院声とほる  康裕

 さて、今月の句会で投句のあった季語は、花野、秋の虹、木犀、芒、刈田、朝寒、草紅葉、木の実、栗飯、秋風、新米などで、すっかり秋めいたものとなった。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

  風出でて人を押しゆく花野かな

  花芒平湯の径にかぶされり

  月山に向けばつめたし刈田径 

                       康裕


<草紙63>「 秋耕 」(富南辛夷句会便り)

 例年8月のお盆を過ぎると、収穫を終えた茄子やトマト、胡瓜、ピーマンなどを抜いて土を打ち返す。しかし今年の衰えを知らぬ猛暑に堅くなった土を打ち返すのはきつい作業だった。ミニ耕耘機を使って耕すが、畝作りは鍬を使って一振りずつの作業だ。ひと息入れるときには曲げていた腰をゆっくり反らし、立山連峰を仰ぐ。しばし、山々と語り、再び鍬を持つ。どうにか畝ができると大根蒔きだ。しかしまた、とんでもなくスピードの遅い台風のため大根を蒔くタイミングにも悩み、いよいよ異常気象が身近に迫ってきていることを実感した。

 8月の句会は都合により9月半ばの開催となった。そのため投句のあった季語は、梅雨明、炎暑、暑し、蝉、立秋、盂蘭盆、迎火、墓参り、残暑などで、夏から秋へと季節の移ろいの見られるものとなった。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

  秋や来る終に淋しさにも慣れず

  迎火のひとときこがす芦荻(ろてき)かな

  故郷の残暑に帰りきたりしか

                       康裕


<草紙62>「常願寺川砂防施設 本宮堰堤 」(富南辛夷句会便り)

 日本一の暴れ川と呼ばれる常願寺川の中流には段差がいくつか作られ、川幅一杯に滝のようになっているところがある。それらは富山平野に入る手前で土砂をせきとめている砂防堰堤だ。特に川上に位置する本宮堰堤は高さ22m、幅107mの大きな堰堤で、せきとめられた土砂の量は我が国最大級を誇り、上空から見下ろせば大きな川原を作っていることがわかる。平生の堰堤は、きらきらと光りながら落ちる「白糸の滝」のようである。堰堤下の川原に遊ぶこともでき、夏は川風が心地よい。

 だが荒梅雨ともなれば濁流が滝となって轟く。流れ落ちると言うよりは、濁流を吐く、爆発させているというのがふさわしい。そして土の匂いを放つ。この様子を詠んだ「辛夷」の先達がいる。この堰堤近くに住まわれていた中川岩魚さんである。

  山町を覆う土の香梅雨出水  岩魚 (『岩魚句集』に所収。)

 さて、句会だが、山開き、夕立、夕焼、茄子、胡瓜、金魚、夏至、立葵、紫陽花、熱帯夜、梅雨晴間、片陰など、夏本番だ。

 投句のあった季語に合わせて『前田普羅 季語別句集』より3句。

  夕立のにごり一すぢ神通峡

  苗売に日蔭をのこすアスファルト

  金魚居てしづかに病いゆるかな

                       康裕


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