前田普羅略年譜

明治18年(明治17年とも)横浜市(現)北方町に生まれる、また東京ともいう
大正 元年はじめてホトトギスに投句する
同  3年ホトトギス誌に「大正二年の俳句界に二人の新人を得たり曰く普羅、曰く石鼎」と推賞される
同 13年報知新聞富山支局長として富山市に赴任する
同 15年『辛夷』雑詠選者となる
昭和 4年辛夷の編集発行を担当し、『辛夷』経営の責を負う
同  4年報知新聞社を辞し、富山永住を決意する
同  5年普羅句集を出版する
同  7年辛夷選句集『雪国』を出版する
同  9年『新訂普羅句集』を出版し、その序文に「わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず」の言葉を記す
同 12年東京日日新聞に「甲斐の山々」5句を発表する
同 18年句集『春寒浅間山』を出版する
同 20年富山県福光町(現・南砺市)に疎開してきた棟方志功と親交を結ぶ
同 20年8月1日の富山大空襲にて普羅庵を焼失し、津沢町 (現・小矢部市)に疎開する
同 22年句集『飛騨紬』を出版する
同 23年棟方志功が普羅の俳句を刻した板画句集『栖霞品(せいかぼん)』を発表する
同 25年句集『能登蒼し』を出版する
同 26年東京郊外矢口に居を移す
同 29年立秋(8月8日)の日に逝去

普羅文学碑

 富山駅を出て、南へまっすぐ行くと桜の名所である松川のほとりに出ます。その奥に豊かな緑に包まれた富山城址公園があります。この公園内に昭和38年に建立された「辛夷」の初代主宰前田普羅の文学碑があります。序幕式典には、普羅と深い親交のあった棟方志功夫妻も参列されました。

 文学碑の右側の銅板レリーフは、棟方志功の手で、普羅の作句精神である言葉が刻まれています。

わが俳句は俳句のためにあらず 更に髙く深きものへの階段に過ぎず   普羅 

 文学碑の左側には普羅の直筆句が刻まれています。

うしろより初雪ふれり夜の町

大雪となりて今日よりお正月

雪の夜や家をあふるる童声

雪山に雪のふりゐる夕かな

オリヲンの真下春立つ雪の宿

 そして碑の裏面には、第2代主宰中島杏子の辞が刻まれています。

 前田普羅師は俳誌辛夷の主宰、大正十三年春、この地に来り居ること二十余年、昭和二十五年春出でゝ東京に移り幾何もなく病を得、昭和二十九年立秋、その地に逝いた。

 師は越中の山河を深く愛し、その風物を諷詠して倦まず。俳句界のみならず広く世人に大いなる影響を與へた。

 この碑、師統をつくる子弟ら相寄つて建つるもの、或は師の高風に副はざるやをおそる。

             昭和三十八年十月 杏子誌  

文学碑右側棟方志功版画

右側 棟方志功版画
左側 普羅直筆句 

右側 棟方志功板画

右側 棟方志功板画 (銅板レリーフ)

文学碑 裏側

文学碑 裏面

富山での前田普羅 

(1)富山に赴任

 前田普羅は、大正元年に初めて『ホトトギス』に投句して以来俳壇で活躍し、原石鼎、村上鬼城、飯田蛇笏らとともに虚子門下四天王と称されていましたが、大正13年5月報知新聞富山支局長として、富山に赴任することになりました。その当時のことを、普羅は次のように述べています。

 関東震災の翌年五月、私は任務で越中に来ることになった。赴任下相談は僅かに五分間ですみ、翌日横浜を発ち越中に来た、(中略)五分間に自分の眼底に去来したものは、荒涼たる能登の国であり、雪をかずいた立山であり、また黒部峡谷であった、次いではまだ鉄道も通っていない飛騨の国なのであった。(『能登蒼し』序)

 この時、「島流し」と思ったものの地質学地形学を好んだ普羅は、瞬時に未知なる山海峡谷の映像を眼底に見ています。この時のことを普羅から聞いた中島杏子の記述を見るとよく理解できます。

 「島流しの様に思ったが、又立山あり黒部川あり、飛騨に接し能登にも近い山河に遊ぶのである」と思い返して赴任の途に上ったと語られた。五月十一日朝、富山に一夜を送られた先生は、宿舎を出て郊外の田圃の畦に立って四方を眺め、山河の美しさに我を忘れられた。

 「南方には飛騨境の山々、東南には立山連峰が行く春の斑雪をつけて城壁の如く並んで居た。脚下より続く田にはレンゲの花が紅く咲いていた。終に立山の下に来た、と私の目から涙がとめどなく流れた」と言われたが、このお言葉は私も幾度か聞いて、幾度か胸を熱くした。(『定本普羅句集』解説)

(2)富山に移住

 大正から昭和になり、普羅は昭和4年の報知新聞社内の異動を機に社を辞して、富山永住を決心し、『辛夷』の運営に専念しました。その理由を普羅は、人生観、自然観の大なる変化であると述べています。

 昭和四年末「辛夷」の経営に当る、且つ越中に移り来りて相対したる濃厚なる自然味と、山嶽の偉容とは、次第に人生観、自然観に大なる変化を起しつつあるを知り、居を越中に定めて現在に至る。(『新訂普羅句集』小伝)

 そして続けてこの小伝で、普羅は自己の俳句理念を高らかに掲げています。

 「わが俳句は、俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず」と云える大正元年頃の考えは、今日なお心の大部分を占むる考えなり、こは俳句をいやしみたる意味にあらで、俳句を尊貴なる手段となしたるに過ぎず。

 「都会人は大自然より都会に隠遁せる人」と思えるに、自分を目して「越中に隠遁せり」と云う都会人あり、終に首肯し能わざる所なり。

 こうして富山に落ち着いた普羅は、富山や能登・飛騨をはじめ各地の自然や風土を愛し、それぞれの地形や風土の特色をいかした「地貌」論を展開し、数多くの名句を生み出しました。今でもその格調高い俳句は、多くの人々に愛されています。

 また、この「地貌」論と普羅の句に関しては、第4代主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』で詳しく紹介されています。

(3)漂泊と帰京

 普羅は、大正12年の関東大震災で資産の一切を焼失しています。そして富山市へ移住後も、昭和20年の富山大空襲で普羅庵ともども23年間集積してきた書籍を焼失してしまいます。そのため津沢町(現・小矢部市)にあった中島杏子邸の古春亭に身を寄せましたが、ここも翌21年の津沢大火で焼け出されてしまいます。これより以降、すでに夫人を亡くしていた普羅は各所を転々とし、ついに昭和25年に富山を離れて帰京しました。

 昭和26年に東京郊外矢口に落ち着きましたが、ほどなく持病が悪化し、昭和29年8月8日、立秋の日に逝去しました。