普羅19 前田普羅の自然詠①   

 今回は、普羅の絶唱の句と、自然との交感を静かに楽しんでいる句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p62) 駒ヶ岳凍てて巌を落しけり
 一読、格調ある響きと大きな余韻に包まれる。「甲斐の山々」と題する5句中の一句で昭和12年1月17日の東京日日新聞に発表されたもの。他の4句は、「茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る」「霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳」「茅ヶ岳霜どけ径を糸のごと」「奥白根かの世の雪をかがやかす」。甲斐駒の偉容、とりわけ厳寒期の酷烈な岩壁の相に真に迫った詠みぶりは、現代の映像技術の粋を集めた大画面をも凌駕しよう。凍ても極まって巌さえも弾き落さないではおかない、そんな甲斐駒はもはや人の手の及ぶべくもない遠い世のものでもある。写生や比喩という言葉では容易に説くことのできない世界がそこにはある。
 「一句の成るや、成れる其の日に成れるにあらず」という普羅は、愛するものには長い歳月をかけて思慕を募らせる。甲斐の地を初めて訪うてから20年経っている。横浜時代には人生の苦悶を抱いて仰いだ甲斐の山々であったが、昭和12年といえば、富山を根拠地に俳人としても雄飛している時代だ。心身ともに充実して甲斐駒と対峙した普羅の真骨頂を見る思いである。山岳俳人と称される所以の句である。『定本普羅句集』所収。

(抜粋 p49) 秋霧のしづく落して晴れにけり
 富山に移住して2年を経た大正末年に、散居村光景を望むこともできる南砺市の古刹安居寺にて作った句である。1300年前の創建という同寺には秘仏の木造聖観音立像を始め見所も多い。参拝に訪れる者を吸い込むかのような自然豊かな山懐の佇まいに、普羅の句ごころも昂揚したことと思われる。
 一句は「秋霧の」との端正な言葉から流れ出す。秋霧として語調を整える詠み方は古来よりあるが、普羅も寺域を歩むほどに霧にとらわれて行く、そんな自らのこころを表現するには単に霧だけでは済まされない厳粛なものを感じたのであろう。立ち籠めた霧は流れ去るというよりも、あたかも普羅を濡らさんとばかりに雫を落とし、次第に晴れ上がっていくのである。こうした自然の息吹との交感に喜ぶ姿がそこにはある。
 富山に移住して、普羅は「只、静かに静かに、心ゆくままに、降りかかる大自然の力に身を打ちつけて得た句があると云うのみである」と書いているが、それは何も山岳俳句だけに限ったことではなかろう。『普羅句集』所収。

 普羅ならではの、ダイナミックで厳しい自然の世界と、繊細で清澄な自然の世界。どちらも普羅の求め続けた俳句の精神世界、芸術の精神世界であることがわかります。次回も、普羅の自然詠を紹介します。 


普羅18 前田普羅の「地貌」の句⑥>   

 今回は、土地の人々の営みから生まれた「地貌」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p82) 畑打が残せば花菜散るばかり
 昭和24年の春、大和関屋の門人奥田あつ女家に逗留していた普羅が豊かな大和平野を逍遥しての作である。『定本普羅句集』に続く次の句「一本の大根種とて花栄華」もその足取りの延長上のものであろう。奥田あつ女の案内による大和路の春の情緒を満喫しての楽しい吟行であったに違いない。
 掲句での「散るばかり」がいかにも普羅らしい把握である。「散りにけり」でも「散りをりぬ」でもなく「散るばかり」なのである。菜種の花の時期も終わって当然に畑も打ち返される。天地返しで黒く光りやまない畑土には自然の息吹を感じて見飽きないものである。たまたま隅の方に、遅ればせながら花を掲げている菜種があって残されているのである。そうしたことは間々あることかもしれないが、そこが大和の国原であればなお一層にゆかしくも思われてくるのである。麗かな陽光の中で、その花菜が散っているのも美しい光景に違いない。それを美しいと留めることなく、否、留めることができなくて「散るばかり」と措定するところに、普羅の晩年へと向かう孤愁を思うのである。

(抜粋 p54) 代馬の静かに歩む飛沫かな
  「代馬」は「代掻き」をする馬で「田掻き馬」とも。トラクターなど機械力のない時代は「代掻き」も重労働であった。田植え前に、田の底の土塊を砕き掻き回して田面を水平に均して行く。田面が凹凸であれば、早苗に浮き沈みができて生育がままならない。田の水持ちもよくなるなど重要な仕事である。この句が成った大正から昭和の頃は、人力や馬や牛の力に頼る作業であった。荒起こしをして水を入れた田に、1メートル幅ほどの鉄製櫛形の馬鍬を曳いた馬や牛が進んで行く、そんな光景があちこちで見られたに違いない。直ぐに植代となるわけではなく、1枚の田を幾日も代馬が行き来した。
  省略されてはいるが、飛沫を上げて静かに歩む代馬の周りには、鴎や鴉や鳶が騒がしく飛び回っている。馬が1歩進むたびに掻かれた土から蚯蚓などの虫が踊り出るのだ。鳥に餌を与える王者のごとき貫禄で代馬が歩む、と眺め飽かない普羅であった。端唄をよくするなど江戸情緒の粋人、普羅が時を忘れて見入っているのである。後に「地貌」論を展開する普羅の次第に風土に溶け込んで行く姿がそこにはある。『定本普羅句集』所収。

 普羅の「地貌」の句を6回にわたり紹介してきましたが、普羅の句を鑑賞する際には、その地勢の趣や、そこに生きる人々と自然とのかかわりを読み取ろうとする姿勢が大切だと思っていただけたのではないでしょうか。次回からは、「地貌」の句も含めて、普羅の自然を詠んだ句を紹介します。 


普羅17 前田普羅の「地貌」の句⑤>   

 今回は、雪国独特の「春と雪」の組み合わせの「地貌」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p64) 弥陀ヶ原漾ふばかり春の雪
 定本普羅句集』では、この句の前に「大空に弥陀ヶ原あり春曇」の句を載せている。弥陀ヶ原とは、三千メートル級の峰々が並ぶ立山連峰の中ほどに広がる大高原である。標高二千メートル前後にして南北2キロ、東西4キロに及ぶものであり、富山市内はもとより富山県内の各地から長々と空に横たわる高原大地を望むことができる。
 一句は「弥陀ヶ原漾(ただよ)ふばかり」と「春の雪」との組み合わせであって、「漾ふばかり」はあくまでも弥陀ヶ原である。「大空に弥陀ヶ原あり」といい、そして「弥陀ヶ原漾ふばかり」という距離感覚からすれば、富山市内にあった普羅の自宅の庭先からか、あるいは市内を歩きながらの眺望のように思われる。
 「春の雪」をどう読むか。春雪の降る中での光景とも取れるが、雪は必ずしも降ってはおらず、「春の雪」とは弥陀ヶ原を覆い尽くした雪の光景である。薄々としながらも時折強い日差しの中に、弥陀ヶ原は「春の雪」を被いた美しき浄土として大空に広がっているのである。天空を立体的に取り込んだ一句からは、富山での暮しの安定も思われる。

(抜粋 p68) 青々と春星かかり雪崩れけり
 透徹した「青々と」した美しさ、轟きも極まるかのような「雪崩れけり」の切れ。一読、人界を遠く離れた岳嶺を思い浮かべるが、一句の舞台は人が往き来する山道である。そこは、風の盆で知られる越中八尾の町から4キロほども山に入った、神通川支流の室牧川上流の谷底にある下の茗(したのみょう)温泉へと至る雪道。下の茗温泉は、富山藩十代藩主前田利保も湯治で訪れた記録も残る名湯である。一軒宿の秘湯であったが、平成11年に閉鎖している。この句の昭和11年当時は、普羅の高弟で八尾町長にもなった橋爪巨籟が守っていた。
 句については普羅自身が次のように書いている。「空気には水分も塵埃もなく、地上は厚い雪だ。提灯を消すと空はますます冴え、雪と星との薄あかりの世界、対岸の山の尾根に近い青い大きな星は呼吸して居る様に瞬き出した。気がゆるんだ様に対岸の絶壁を細い雪崩がドウ、ドウと落ちそめる」と。地貌を見据えて、そこに暮す人々のこころにも触れようとした普羅には、見飽きることのない、現でありながら夢のような世界であったろう。普羅の歓喜に応えて瞬きやまぬ「青い大きな星」である。『飛騨紬』所収。

 山々と春の雪、さらには春星との組み合わせは、雪国独特の美しい風景であり、普羅を魅了してやみません。冬の厳しい美しさを詠む普羅とはまた違って、春の到来の喜びを胸に、雪国の大自然を楽しんでいる普羅を思います。

 次回も引き続き普羅の「地貌」の句を紹介したいと思います。