普羅11 前田普羅の富山への思い   

 これからは、富山移住後の普羅とその俳句を、紹介したいと思います。今回は、普羅の富山への思いを見てみましょう。

 まず、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』から紹介します。 

(抜粋 p132)
 普羅が報知新聞(当時は一般紙)富山支局長として富山市に赴任したのは、大正13年の5月であった。富山への赴任内示を承諾するのに5分と要しなかった、という。
 普羅自身の言葉から、普羅の富山の地に寄せる熱い思いが伝わってくる。

 小学校ではじめて日本地理を学んだ時、雪国として頭に打ち込まれたのは東北地方でなく、此の越中の国であった。「雪の底の生活をせめて一冬でもやって見たい」と云ふ心は、已に十五六歳の時に芽ざして居た。一冬の生活は出来なくとも、一度は雪の越中の国を通過して見たいとまで思って居た。其の越中に住むに至って、雪の来る毎に子供の如く喜び、そして壮麗目をうばう許りの雪解の上に踊った。(『渓谷を出づる人の言葉』より)

 さて、普羅の赴任を知った「辛夷」の人たちは、いち早くその門を叩き、俳句談や古本談や旅行談に熱中したようです。街に繰り出せば普羅は粋で陽気で、弟子の中島杏子は普羅について「文学道には厳しいお方であったが、人間としては多彩な温かい心の持主であった」と述べています。(『定本普羅句集』p649)そして昭和4年4月、普羅は報知新聞社内の異動を機に社を辞して富山永住を決意します。翌5年の『普羅句集』の序では、以下のように富山を述べています。 

(抜粋)
 私には若干の愛書と、家族を容れて余りある古き二張の麻蚊帳と、昼夜清水を吐いて呉れる小泉と、ジャマン製の強力なる拡大鏡一つとがある。その上に、周囲には多くのよき友があり、之等を抱いて力強き越中の国の自然がある。(『定本普羅句集』p4)

 こうして普羅は富山の地に生きることになります。そして、美しくも厳しい自然と、そこに生きる人々の風土に根ざした暮らしを体感していきながら「地貌」論を展開し、俳句精神を深化させていきます。次回は、その普羅の「地貌」論を紹介したいと思います。


普羅10 前田普羅の富山移住前⑤ 普羅と『ホトトギス』 

  普羅は、大正元年に俳句雑誌『ホトトギス』に投句して以来俳壇で活躍し、大正3年には『ホトトギス』課題句選者になっています。大正5年に横浜裁判所を辞し、時事新報社ついで報知新聞社に移り、大正13年富山支局長として富山に赴任、昭和4年に富山永住となります。この間の普羅と『ホトトギス』について、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「虚子と普羅」から紹介します。

 まず、『ホトトギス』の巻頭(虚子選)を飾った普羅の句を見てみましょう。

(抜粋1)「普羅の巻頭句」より(p117)
 『ホトトギス巻頭句集』は、『ホトトギス』で「雑詠」欄が始まった明治41年10月号から平成7年12月号までの巻頭作品がもれなく掲載されている。その間、選者は、虚子の43年、高浜年尾の26年、そして稲畑汀子現主宰の18年と代わっている。合計年数が合わないのは、途中「雑詠」欄のない時期があったためである。
 虚子が、ホトトギス大正3年正月号に「大正2年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎。」と書いたことは、よく知られている。普羅は、大正第一期ホトトギス黄金時代に、原石鼎、飯田蛇笏そして村上鬼城らとともに四天王と称された。その丈高い俳句は今日の俳句隆盛時代を導くための確固たる基盤を築いた。
 普羅の巻頭を見ると3回、横浜時代の作品である。
 1回目は、大正2年3月号で8句
  雪晴れて蒼天落つるしづくかな
  農具市深雪を踏みてかためけり
  雪の峰に人を殺さぬ温泉かな
  荒れ雪に乗り去り乗り去る旅人かな
  雪明り返へらぬ人に閉しけり
  ぬかるみの本町暗し冬至梅
  雪垂れて落ちず学校始まれり
  炭割れば雪の江のどこに鳴く千鳥
 2回目は、大正3年5月号の4句
  乾坤の間に接木法師かな
  さし木すや八百万神見そなはす
  接穂の事尋ね入りたる濛雨かな
  干足袋を飛ばせし湖の深さかな
 そして、3回目は大正9年9月号の12句
  夏草を搏ちては消ゆる嵐かな
  夏草を刈り伏せ刈り伏せ人動く
  好者の羽織飛ばせし涼みかな
  旱雲月夜の空を駈りけり
  伊豆高し海月静かに渡りけり
  月さすや沈みてありし水中花
  酒中花や石に捨てられ乾きけり
  鮓なるや暗きを出づる主顔
  鮓なるゝ頃不参の返事二三通
  押鮓の鯖生きてあり切らんとす
  人の如く鶏頭立てり二三本
  丈高き花魁草も踊りけり
の24句である。巻頭作品の数が一定していないのも、おもしろい。大正期のその頃は、50句募集であったというから、現在以上の厳選であった。
 その後の普羅は、虚子を仰ぎつつも次第に『ホトトギス』を離れて行くのである。

 次に、虚子の普羅評について見てみましょう。

(抜粋2)「進むべき俳句の道」より(p121)
 大正7年6月に出た『進むべき俳句の道』は、虚子が俳句を志す人々への指針となるよう自らの俳句に対する考えを述べたものである。この中で、虚子は、渡辺水巴、村上鬼城、飯田蛇笏、長谷川零余子、原石鼎ら32人の俳人を取り上げているが、普羅の句については「秋の如く冬の如く、簡素、雄勁、それぞれ異なった姿態を具えていた」と述べている。
  しみじみと日を吸ふ柿の静かな
  病む人の足袋白々とはきにけり
の2句を代表作として挙げ、次のように解説する。

 その調子が洗練されておって、一点の衒気もなく、一点の匠気もない。一寸見ると平々他気ない句のようであって、その中には清新な思想が何の屈托もなく盛られてある。……石鼎君の華やかな句に比較して見るといずれも静かに淋しい。それかと言って決して力の弱い、張りのない句ではない。内部に潜める力は十分にあるけれども、作者の控目なおとなしい性質は容易に表へそれを暴露しないでいるのである。

 この時代の普羅は、7年間勤めた役所を心に染まぬとして辞し、進むべき人生の道を見出そうとしていた時期であった。

 次回からは、富山移住後の、憧れの大自然とともにある普羅の俳句と、その精神性を、主宰中坪の著書『前田普羅その求道の詩魂』より紹介します。 


普羅9 前田普羅の富山移住前④ 普羅の自然詠 

 今回は、普羅の自然への思いを込めた原点ともいえる句を見ていきましょう。主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「普羅と語る」から紹介します。

(抜粋1) 雪解川名山けづる響かな (大正4年)(p41)
 少年の頃より志賀重昂の『日本風景論』を読み、また山岳に明るい普羅が固有名詞を出すことなく、あえて「名山」と置いている。その「名山けづる」を受けて「雪解川」も、ただの川であることを許されなくなる。読者も上五の「雪解川」へ呼び戻されて、破壊力ある激流を想うのだ。この上五、中七と続く重量感ある流れを、「響かな」と結んで格調の高さと強い余韻をもたらして巨大な自然エネルギーを実感させるのである。
 誇張といえば、これほどの誇張があろうか。批判の向きもあるかもしれないが、それを跳ね飛ばすだけの普羅の情念と一句の力が感じられる。後に「地貌」論を展開するようになる普羅であるが、自然の底知れぬ力と魅力に全身で真向かった、その胸奥から迸り出たものであろう。丈高い山岳詠をなし、また渓谷に入っては己が安心立命を図ろうとする普羅の自然への親愛を思わせる一句である。

(抜粋2) 雪晴れて蒼天落つるしづくかな(大正2年)(p52)
 「雪晴れて」とは、降り続いた大雪もようやく止んだ久方ぶりの快晴であろう。昨日までの重苦しい空模様とは一転して、目も眩むほどの陽光の中に立っている普羅の毅然とした立ち姿が浮かんで来る。一面の白銀の世界が放つ輝きは、目や頬を痛いまでに刺すばかりの強さであろう。白銀に映えた蒼天は大地を圧するかのように近々として、大屋根や樹々の高みからは雪解けの雫が轟き落ちている。「蒼天落つる」は、そんな光景を瞬時に切り取った普羅独特の気息充実した豪快な表現である。
 この句は普羅が『ホトトギス』の虚子選で初巻頭を取った大正2年3月号の中の一句である。他には「農具市深雪を踏みてかためけり」「荒れ雪に乗り去り乗り去る旅人かな」「雪明り返らぬ人に閉しけり」「雪垂れて落ちず学校始まれり」などの句がある。初巻頭が雪を主題にしたものであることに注目する。富山に移住することとなる、その11年も前にこうした作品を発表していることも興味深い。何か、その後の普羅の俳人生を暗示しているかのようでもある。

 普羅の自然への憧れと、その眼差しから生まれた格調高い俳句は、すでに富山移住前に生まれていました。その後、富山移住によって普羅の俳句はより深化し、多くの人に愛されている自然詠、山岳詠が数多く生まれています。今後、それらを紹介できることがとても楽しみです。次回は、『ホトトギス』における普羅を紹介し、富山移住前のまとめとしたいと思います。