< 普羅36 前田普羅は「漂泊の俳人」>
今回は、普羅の「漂泊」について、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p92) 「地貌」を詠む漂泊の旅
前田普羅の句には、今日一般的にいうところの旅吟というものは存在しない、それが過言というならば、きわめて少ないというべきか。普羅は基本的には漂泊の俳人である。止むにやまれぬ懊悩の末に旅に出る、と私は考えている。そして、その俳句精神には学ぶべきことが多い。
かりがねのあまりに高く帰るなり 普羅
亡くなる4年前の昭和25年の作である。「あまりに高く」が、もの悲しさを超えてすさまじくさえある。あまりにも高き雁の飛翔は、果てしなき求道の途にある普羅自身の、漂泊に老いた孤独な姿とも重なって見える。普羅の漂泊は本性のしからしむるところもあろうが、少年時代に出会った志賀重昴の『日本風景論』の影響も大きいように思う。日清戦争の最中に出版された同著は、日本の風景は世界の中でもすばらしいと説くものだが、少年普羅のこころに各地の風景に直に触れたいという願望が生まれたと思われる。それが、後に風狂のこころとも相俟った旅路につながって行くこととなるのである。
< 普羅35 前田普羅の「老いと漂泊」>
普羅の俳句において重要な意味をもつ「老いと漂泊」を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p21) 老いと漂泊
秋風の吹きくる方に帰るなり(昭和23年)
昭和23年、名残惜しき大和の旅先から富山の住まいへと向かう折りの一句である。<秋風の吹きくる方>とは、すなわち富山を指す。普羅は解脱がならぬままに、漂泊の旅を重ねて行く。
大正12年に横浜で関東大震災に遭い奇蹟的に助かるが蔵書三千余冊とともに資産を焼失、昭和20年8月には富山にて戦災のため横浜時代を上回る蔵書とともに家を失う。そして、翌21年3月、疎開先の富山県西部の津沢町で大火に罹災、以来、転々とした暮らしを余儀なくされることとなる。この間、昭和18年1月には、苦労をかけた妻を亡くした。
この雪に昨日はありし声音かな(昭和18年)
同23年までに二人の娘を嫁がせて、いよいよ孤愁の影を深めた。
元日を覚むるやつねの北枕(昭和24年)
若きより各地へ赴いた普羅であったが、持病の腎臓病悪化とともに晩年になるに従ってその身と魂は漂泊の度を深めて行った。この句は没する昭和29年に先立つ5年前の作だが、辞世的な趣が深い。
花散つてゐる奥山の恐ろしき(昭和28年)
<恐ろしき>という強烈な主観語を下五に据えているにもかかわらず、一句全体としては閑寂境に至っている。山の句の中でも黒部峡谷など<奥山>と限定したものは二十句余り。
奥山に逆巻き枯るる芒かな(昭和9年)
人の世の奥山の草枯れて立つ(12年)
普羅にとって<奥山>は、現実の世界を超えた畏敬の地であり、また憧憬の地でもあった。昭和11年には、一代の絶唱、
奥白根かの世の雪をかがやかす
が生まれている。
<花散つてゐる>の句は昭和28年作、没する前年のもの。<奥白根>の明るさに対して、なんと暗黒の<奥山>であることか。<奥山>の暗黒に散りやまぬ花が妖しいばかりだ。暗黒より生み出て、暗黒へと散りやまぬ花片の乱舞。身動きもままならなくなった最晩年の普羅の脳裏の<奥山>は、かく恐ろしきものであった。
しかし、その年の秋には、
奥山の草爽やかに刈られけり(昭和28年)
と詠まれているのが救いではあるが、それは、気力、体力がいよいよ衰えた普羅が己が苦しみから逃れるために、無理に心の整理をしようとしたようにも思える。
< 普羅34 前田普羅の「向日葵の月」>
今回は、普羅の「向日葵の月」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p37) 向日葵の月に遊ぶや漁師達
「向日葵の」の「の」が主格の「の」のようにも見えるが、主語はあくまでも「漁師達」であって「向日葵の月」に遊ぶのである。明治末年、ところは九十九里海岸の波打ち際を延々と伸びる「納屋通り」と呼ばれた道。納屋とは漁師が寝泊りする小屋で、垣には向日葵が咲いている。向日葵も今日よく見る小ぶりなものではなく、高く逞しいものであったろう。その道には血気盛んな若い漁師相手の呑み屋も点在し、低い松と熱砂の道は日が落ちると夜遊びの道と化した。今では想像もつかない漁業盛んな時代の光景である。
「向日葵の月」との把握は、長汀から天空までの大空間を鷲掴みにしたような壮快さがある。月の夜は浪が高く、人の背丈の三、四倍になることもあるという。沖も白み出すころ、遊び足らない漁師達が呑んだ勢いで浴衣も飛ばしそうに、あられもない格好で帰り来る。その抑え難い放埓の気に自らの心境をも重ね合わせた「遊ぶや」の措辞である。九十九里の一角の千葉県白子町、当時の関村は普羅の父の故郷で普羅自身も親しく訪れて滞在している。普羅、二十代後半にしてよく風土と習俗を活写した一句。『普羅句集』所収。