< 普羅63 普羅の言葉 >
主宰中坪達哉は、著書『前田普羅 その求道の詩魂』の第1章p3で、普羅から学ぶべきこととして3つのことを挙げています。①普羅が唱えた「地暴論」にもとづいた作句の徹底、②丈高い立句を目指すこと、③普羅の高邁な作句精神に学ぶこと、の3つです。この3つ目の普羅の作句精神を表す一番大切な言葉への主宰の思いを紹介します。
(抜粋p25) 普羅の言葉
わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず。
こは俳句をいやしみたる意味にあらで、俳句を尊貴なる手段となしたるに過ぎず。
普 羅 (昭和9年『新訂普羅句集』小伝)
初学時代、普羅のこの言葉を聞いたときの驚きと感動を今も忘れはしない。
昭和57年、私は普羅晩年の弟子・福永鳴風の門を叩いた。師の私に対する句作指導は厳しく、「これは俳句ではありません」とバッサリやられることもしばしばであった。俳句を言葉のレトリックの一文芸と高を括っていた私の甘い考えは、徹底的に叩きのめされた。そして、鉄槌をくらうかのごとくに聞いたのが、冒頭の言葉であった。
普羅のこの言葉について、普羅研究の泰斗中西舗土氏は、次のように述べている。
【一見容易にうけとられるようで、その真意は非常にわかりにくい言葉である。寺小僧のお経読みのお経知らずに似て、普羅周辺ではただ暗誦していて深く究めなかったうらみが残っている。(平成3年『評伝前田普羅』)】
中西舗土氏は「非常にわかりにくい言葉」とだけ言って、どこがどうわかりにくいのか、具体的には言及していない。一般的には、「俳句を尊貴なる手段となす」という箇所は理解しにくいと思う。しかし、「わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず」という言葉は、古今の名言がそうであるように、これを読んだ人々に深い感銘を与えるものと思う。
余談めくが、数年前に聞いた落語家柳家小さん師匠の語りを思い出す。それは「噺ばかりいくら稽古したって、上手くはならない。卑しい者は卑しい噺になるし、生意気な者は生意気な噺になってしまう。人間そのものを磨かねばならない」というものであった。話芸のより高みを目指す人間国宝柳家小さんの真骨頂を思いつつ、普羅の言葉に重ね合わせて聞いていた。
< 普羅62 前田普羅と飯田蛇笏 >
定本『普羅句集』は、普羅を継いだ中島杏子によって昭和47年に辛夷社より発行されましたが、その序文は、もともと普羅の墓碑銘の筆を取った飯田蛇笏に依頼されたものでした。編集の進行具合と昭和37年の蛇笏の逝去により幻のものとなってしまいましたが、当時、中島杏子らが蛇笏を訪れ依頼した様子は『辛夷』昭和33年5、6、8月号に記載されています。中でも、主宰中坪達哉は、序文を依頼するくだりは蛇笏の普羅観をうかがい知ることができる貴重なものであるとして、その箇所を抜粋して、著書『前田普羅 その求道の詩魂』で紹介しています。
(抜粋p153) (※一部、現代の国語表記にしてあります)
「実は普羅句集が今年こそ出来ますので、是非とも先生の序文を頂きたいと辛夷会員一同のお願いであります…」
「普羅のことは何時か俳句誌上に書いた筈ですが改めて書きましょう。…普羅のことなら書き甲斐がある」と一言一言力をこめて快諾された。
「普羅師の生前は心から先生の御理解を頼みにして居られた様ですが。辛夷が一時戦争で中絶しかけた時も雲母に客員として作品を発表して居られた程の信頼ぶりでしたが、其の辺の消息は如何でしたでしょうか」
「そうそう、そうだった。普羅は辛夷が復活した後も雲母客員はそのままにして作品を出そうと言うことだったが、わたしゃ、それはいかん、自分の主宰誌が出来た以上、自分の主宰誌一本槍に行かなくては駄目だと力説したがネ…」
「普羅は一寸律儀過ぎた気骨があってネ」と翁はやや歎息めいた口ぶりである。
「先生と普羅師はよく比較されますがこの点は如何でしょう」
「ウン、ウン、私ら二人は一寸意固地な処が似ているからだろう。それと二人とも山好きで山の中へ引込んで居るからかも知れん。作品は似て居るかナ」と翁は一寸疑問符を挟んだ。「私が新聞で初めて普羅の甲斐白根の句を推賞したがネ、それから俳壇が俄かに普羅の山の句に注目し出したのは愉快だったよ」と翁は言葉を転じて普羅師の作品の勁健なことを力説されて現代俳壇のこと迄に言及されたことに私ども四人は大いに啓発された。
「難解派や社会派など新興俳句の諸派は幾つもあるがネ、判らぬ俳句は厭だネ。貴方は普羅の伝統を受けて判る俳句を作って居られることには好感が持てますよ」と翁ははっきりと言われたが、私どもはそうそう安心もして居られぬ心地がして、近代俳句の傾向と普羅師の伝統をどうマッチさせ句境の開展を計るべきかに苦慮して居る心情を語ると、翁は「さもありなん」と言う面持ちで、「普羅の本領は仲々至り難いものでしょうが大いに努力して欲しい」と激励された。
参考(昭和12年1月、東京日日新聞に発表された「甲斐の山々」5句)
茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る
霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳
駒ヶ岳凍てて巌を落しけり
茅ヶ岳霜どけ径を糸のごと
奥白根かの世の雪をかがやかす
< 普羅61 前田普羅の「 霜つよし 」>
普羅の絶唱句「霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳」を、飯田蛇笏の名句「芋の露連山影を正しうす」と同じく近景・遠景の構図で、蛇笏の句を意識して作られたと見立てた論に対し、主宰中坪達哉は疑問を呈し、いくつかの著述をもとに読み解いています。その一部を著書『前田普羅 その求道の詩魂』より抜粋して紹介します。
(1)中坪主宰の考え
(抜粋p103)
私は、「霜つよし」は、近景そして景色を踏まえながらも、もっと大きな広く天空をも包み込もうとする普羅の主情あふれる一語である、と解釈している。決して、蛇笏の「芋の露」を意識したものではない、と考える。
(2)飯田蛇笏の「芋の露連山影を正しうす」についての著述
(抜粋p103)
蛇笏の「芋の露」の句について、山本健吉は
【 里芋の畑は近景であり連山は遠景である。爽やかな秋天の下、遠くくっきりと山脈の起伏が、形をくずさず正しく連なっている。倒影する山脈の影も正しく起伏を描き出しているのであるが、「影」はまた「姿」にも通ずるのである。澄み切った秋空に、連山が姿を正すかのように、はっきりと、いささかの晦冥さをとどめず、浮かび上がっているのである。「芋の露」は眼前の平地の光景であり、かなりの拡がりを持った眺めでもある。広葉の露に、秋の季節の爽涼を感じ取ったのである。/秋の山容を表現して遺憾がないと言うべきであろう。「影を正しうす」とは、また彼自身の心の姿でもあったのである。】
と、その著『現代俳句』で述べている。
(3)普羅の「霜つよし」の句についての著述
(抜粋p104)
まず、山本健吉は、その著『現代俳句』の中で
【 典型的な普羅調を打ち出している。代表的な円錐火山をなしている八ヶ嶽の山容を「蓮華とひらく」と形容したのである。一つ一つの雪の嶽さながら白い花弁に当たるのである。だが形容というにはイメージがあまりに直接的であり、強い感動がじかにぶつかってくる思いがする。そこに「霜つよし」という初五の裸の言葉が響き合うのだ。きびしく美しい霜日和である。】
と、「霜つよし」を大きく捉えている。
また、山岳俳人の岡田日郎氏は
【「八ヶ岳」の八つの峰がそれぞれ雪を冠って、八つの白「蓮華」の花びらのように並んでいると見た。その山麓は蕭条とした「霜」枯の景。「霜つよし」も実景が基調になっているにちがいない。贅語のまったくない完璧な表現。(『前田普羅』)】
と、「霜つよし」を、単なる「近景」とはしていない。
さらに、池上浩山人は『現代俳句評釈』の中で、
【 甲府近辺は冬は非常に寒い。それだけにはなはだしく白く地上に結露するのであろう。この霜を強しとまず表現し、八ヶ岳を蓮華といったところに、この山の様相を的確に表現していて妙である。この場合「蓮華とひらく八ヶ岳」と叙することは、何人にも容易であるが、上五の「霜つよし」の語は、よほどの力量と凝視と一致しなくては容易にはできてこない作である。八ヶ岳を詠んだ句として、他にその比類を見ることのできない名作である。】
と、「霜つよし」の一語の重みを説いている。
(4)中坪主宰の結論
(抜粋p105)
「霜つよし」は、蛇笏の「芋の露」を意識したものではなく、天空をも包み込もうとする普羅の主情あふれる一語である。普羅のこの一句は、精神の安寧を求めんがために、大自然の厳しさを愛し、自らを高めんと命を削って作ったものである。
(『辛夷』平成9年2月号掲載)
