< 普羅63 普羅の言葉

 主宰中坪達哉は、著書『前田普羅 その求道の詩魂』の第1章p3で、普羅から学ぶべきこととして3つのことを挙げています。①普羅が唱えた「地暴論」にもとづいた作句の徹底、②丈高い立句を目指すこと、③普羅の高邁な作句精神に学ぶこと、の3つです。この3つ目の普羅の作句精神を表す一番大切な言葉への主宰の思いを紹介します。

(抜粋p25) 普羅の言葉

わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず。

こは俳句をいやしみたる意味にあらで、俳句を尊貴なる手段となしたるに過ぎず。

  普 羅  (昭和9年『新訂普羅句集』小伝)

 初学時代、普羅のこの言葉を聞いたときの驚きと感動を今も忘れはしない。
 昭和57年、私は普羅晩年の弟子・福永鳴風の門を叩いた。師の私に対する句作指導は厳しく、「これは俳句ではありません」とバッサリやられることもしばしばであった。俳句を言葉のレトリックの一文芸と高を括っていた私の甘い考えは、徹底的に叩きのめされた。そして、鉄槌をくらうかのごとくに聞いたのが、冒頭の言葉であった。

 普羅のこの言葉について、普羅研究の泰斗中西舗土氏は、次のように述べている。
【一見容易にうけとられるようで、その真意は非常にわかりにくい言葉である。寺小僧のお経読みのお経知らずに似て、普羅周辺ではただ暗誦していて深く究めなかったうらみが残っている。(平成3年『評伝前田普羅』)】
 中西舗土氏は「非常にわかりにくい言葉」とだけ言って、どこがどうわかりにくいのか、具体的には言及していない。一般的には、「俳句を尊貴なる手段となす」という箇所は理解しにくいと思う。しかし、「わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず」という言葉は、古今の名言がそうであるように、これを読んだ人々に深い感銘を与えるものと思う。

 余談めくが、数年前に聞いた落語家柳家小さん師匠の語りを思い出す。それは「噺ばかりいくら稽古したって、上手くはならない。卑しい者は卑しい噺になるし、生意気な者は生意気な噺になってしまう。人間そのものを磨かねばならない」というものであった。話芸のより高みを目指す人間国宝柳家小さんの真骨頂を思いつつ、普羅の言葉に重ね合わせて聞いていた。


< 普羅62 前田普羅と飯田蛇笏

 定本『普羅句集』は、普羅を継いだ中島杏子によって昭和47年に辛夷社より発行されましたが、その序文は、もともと普羅の墓碑銘の筆を取った飯田蛇笏に依頼されたものでした。編集の進行具合と昭和37年の蛇笏の逝去により幻のものとなってしまいましたが、当時、中島杏子らが蛇笏を訪れ依頼した様子は『辛夷』昭和33年5、6、8月号に記載されています。中でも、主宰中坪達哉は、序文を依頼するくだりは蛇笏の普羅観をうかがい知ることができる貴重なものであるとして、その箇所を抜粋して、著書『前田普羅 その求道の詩魂』で紹介しています。

(抜粋p153) (※一部、現代の国語表記にしてあります)
「実は普羅句集が今年こそ出来ますので、是非とも先生の序文を頂きたいと辛夷会員一同のお願いであります…」
「普羅のことは何時か俳句誌上に書いた筈ですが改めて書きましょう。…普羅のことなら書き甲斐がある」と一言一言力をこめて快諾された。

「普羅師の生前は心から先生の御理解を頼みにして居られた様ですが。辛夷が一時戦争で中絶しかけた時も雲母に客員として作品を発表して居られた程の信頼ぶりでしたが、其の辺の消息は如何でしたでしょうか」
「そうそう、そうだった。普羅は辛夷が復活した後も雲母客員はそのままにして作品を出そうと言うことだったが、わたしゃ、それはいかん、自分の主宰誌が出来た以上、自分の主宰誌一本槍に行かなくては駄目だと力説したがネ…」
「普羅は一寸律儀過ぎた気骨があってネ」と翁はやや歎息めいた口ぶりである。

「先生と普羅師はよく比較されますがこの点は如何でしょう」
「ウン、ウン、私ら二人は一寸意固地な処が似ているからだろう。それと二人とも山好きで山の中へ引込んで居るからかも知れん。作品は似て居るかナ」と翁は一寸疑問符を挟んだ。「私が新聞で初めて普羅の甲斐白根の句を推賞したがネ、それから俳壇が俄かに普羅の山の句に注目し出したのは愉快だったよ」と翁は言葉を転じて普羅師の作品の勁健なことを力説されて現代俳壇のこと迄に言及されたことに私ども四人は大いに啓発された。
「難解派や社会派など新興俳句の諸派は幾つもあるがネ、判らぬ俳句は厭だネ。貴方は普羅の伝統を受けて判る俳句を作って居られることには好感が持てますよ」と翁ははっきりと言われたが、私どもはそうそう安心もして居られぬ心地がして、近代俳句の傾向と普羅師の伝統をどうマッチさせ句境の開展を計るべきかに苦慮して居る心情を語ると、翁は「さもありなん」と言う面持ちで、「普羅の本領は仲々至り難いものでしょうが大いに努力して欲しい」と激励された。

参考(昭和12年1月、東京日日新聞に発表された「甲斐の山々」5句)
  茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る
  霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳
  駒ヶ岳凍てて巌を落しけり
  茅ヶ岳霜どけ径を糸のごと
  奥白根かの世の雪をかがやかす


< 普羅61 前田普羅の「 霜つよし 」>

 普羅の絶唱句「霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳」を、飯田蛇笏の名句「芋の露連山影を正しうす」と同じく近景・遠景の構図で、蛇笏の句を意識して作られたと見立てた論に対し、主宰中坪達哉は疑問を呈し、いくつかの著述をもとに読み解いています。その一部を著書『前田普羅 その求道の詩魂』より抜粋して紹介します。

(1)中坪主宰の考え

(抜粋p103)
 私は、「霜つよし」は、近景そして景色を踏まえながらも、もっと大きな広く天空をも包み込もうとする普羅の主情あふれる一語である、と解釈している。決して、蛇笏の「芋の露」を意識したものではない、と考える。

(2)飯田蛇笏の「芋の露連山影を正しうす」についての著述

(抜粋p103)
  蛇笏の「芋の露」の句について、山本健吉は
【 里芋の畑は近景であり連山は遠景である。爽やかな秋天の下、遠くくっきりと山脈の起伏が、形をくずさず正しく連なっている。倒影する山脈の影も正しく起伏を描き出しているのであるが、「影」はまた「姿」にも通ずるのである。澄み切った秋空に、連山が姿を正すかのように、はっきりと、いささかの晦冥さをとどめず、浮かび上がっているのである。「芋の露」は眼前の平地の光景であり、かなりの拡がりを持った眺めでもある。広葉の露に、秋の季節の爽涼を感じ取ったのである。/秋の山容を表現して遺憾がないと言うべきであろう。「影を正しうす」とは、また彼自身の心の姿でもあったのである。】
と、その著『現代俳句』で述べている。

(3)普羅の「霜つよし」の句についての著述

(抜粋p104)
 まず、山本健吉は、その著『現代俳句』の中で
【 典型的な普羅調を打ち出している。代表的な円錐火山をなしている八ヶ嶽の山容を「蓮華とひらく」と形容したのである。一つ一つの雪の嶽さながら白い花弁に当たるのである。だが形容というにはイメージがあまりに直接的であり、強い感動がじかにぶつかってくる思いがする。そこに「霜つよし」という初五の裸の言葉が響き合うのだ。きびしく美しい霜日和である。】
と、「霜つよし」を大きく捉えている。

 また、山岳俳人の岡田日郎氏は
【「八ヶ岳」の八つの峰がそれぞれ雪を冠って、八つの白「蓮華」の花びらのように並んでいると見た。その山麓は蕭条とした「霜」枯の景。「霜つよし」も実景が基調になっているにちがいない。贅語のまったくない完璧な表現。(『前田普羅』)】
と、「霜つよし」を、単なる「近景」とはしていない。

 さらに、池上浩山人は『現代俳句評釈』の中で、
【 甲府近辺は冬は非常に寒い。それだけにはなはだしく白く地上に結露するのであろう。この霜を強しとまず表現し、八ヶ岳を蓮華といったところに、この山の様相を的確に表現していて妙である。この場合「蓮華とひらく八ヶ岳」と叙することは、何人にも容易であるが、上五の「霜つよし」の語は、よほどの力量と凝視と一致しなくては容易にはできてこない作である。八ヶ岳を詠んだ句として、他にその比類を見ることのできない名作である。】
と、「霜つよし」の一語の重みを説いている。

(4)中坪主宰の結論

(抜粋p105)
 「霜つよし」は、蛇笏の「芋の露」を意識したものではなく、天空をも包み込もうとする普羅の主情あふれる一語である。普羅のこの一句は、精神の安寧を求めんがために、大自然の厳しさを愛し、自らを高めんと命を削って作ったものである。

(『辛夷』平成9年2月号掲載)


< 普羅60 前田普羅の「 恋心 」>

 普羅には「恋心」を詠んだ句がありました。主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』から紹介します。

(抜粋p110) (昭和23年3月の作)

  くりくりと君がたばねる韮の玉

  窓前に韮の闇あり奈良遠し

 「奈良遠し」の奈良は奥田あつ子さんのいる大和関屋であり、「君がたばねる」の君とは奥田あつ子さんその人であろう。同年の2月には普羅の「奥田あつ子さんよりの文通ふつりと絶ゆ、暗き想ひす」との記述も残っている。作品の上では、韮をたばねる君がいなくなった韮畑の闇。そして韮の独特の強い匂いは普羅の狂おしき心を象徴する。連句仕立てのあつ子恋である。


< 普羅59 前田普羅の「 おわら(歌詞)」>

 9月1日、「おわら風の盆」の始まりです。八尾町の「おわら」を見に行くと、目では踊りに夢中になり、耳では胡弓や三味線、太鼓、囃子、そしてみごとな高音の唄声に心を奪われます。ですが、唄の歌詞をじっくり聴いて味わうことがありませんでした。それに気づかせてくれたのが、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』です。おわらの歌詞は、八尾俳壇で活躍されていた俳人や、高浜虚子、野口雨情など八尾を訪れた文人墨客たちの歌詞、中坪達哉主宰も選者を務めたことのある懸賞募集当選歌など、たくさんあります。端唄を口にした普羅も、楽しんで作ったことでしょう。主宰の著書『前田普羅 その求道の詩魂』から「おわらの歌詞」と普羅の歌詞を紹介します。

(抜粋p178)  普羅と越中おわら

 おわらの歌詞は、俳句の5・7・5と異なり、7・7・7・5が基本形である。ただ、最後の5音の前に必ず「オワラ」の囃子3音が入るので、実際には7・7・7・8と言えるかもしれない。よく耳にする唄の一つに
  唄の街だよ八尾の町は 唄で糸とる オワラ 桑も摘む  (中山 輝)
があり、そして男女の仲を唄ったものを一つ挙げれば、
  ゆらぐ吊橋手に手を取りて 渡る井田川 オワラ 春の風  (小杉 放菴)

 ちなみに、「越中で立山、加賀では白山、駿河の富士山、三国一だよ」また「浮いたか瓢箪かるそに流れる、行く先ア知らねどあの身になりたや」は囃子である。囃子としては長いので、長囃子と称される。
 ところで、普羅もおわらの歌詞を作っている。「小原竹枝」と銘打った4作である。竹枝とは土地の民謡という意味である。

  繭は車で車は馬で 馬は笠着て幌かけて
  糸はむらなく情けはながく 八尾あねまの八重だすき
  西は室牧南の野積 東卯の花梅の花
  雪が来たそな牛岳様に あねま出て見よ枠とめて      普 羅

「あねま」とは若い女性。「卯の花」村とは、辛夷老大樹がある現在の角間をいう。

(『辛夷』平成16年10月号掲載)

<参考>

 おわら節の唄と囃子の構成を知っておくと、それぞれを味わうことができ、聴く楽しみが生まれます。いろいろ違いはありますが、基本は「囃子・上の句・囃子・下の句」で、前後に「長囃子」が入ります。例を挙げれば、

<越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山 三国一だよ>

<歌われよー わしゃ囃す>

二百十日に風さえ吹かにゃ <キタサノサー ドッコイサノサー> 早稲の米喰うて オワラ 踊ります

<三千世界の松の木涸れてもあんたと添わねば娑婆へ出たかいがない>

 そして再び<歌われよー わしゃ囃す>と繰り返され、哀調を帯びた「合いの手(間奏曲)」とともにおわら節が続いていきます。


< 普羅58 前田普羅と「 おわら風の盆 」>

 編み笠を目深に被った男女が、胡弓や三味線、越中おわら節の唄に合わせて、情緒豊かに坂の町を踊り流していく「おわら風の盆」は、二百十日の風を鎮め、豊年豊作を願う伝統行事です。江戸時代から踊り継がれ、今もなおニューヨークタイムズの「2025年行くべき52カ所」で紹介されるほど人々を魅了し続けています。主宰中坪達哉は、著書『前田普羅 その求道の詩魂』で、「おわら風の盆」を紹介するとともに、普羅らしい文体で記された「風の盆」の夜を紹介しています。その部分を抜粋して紹介します。

(抜粋p177)  普羅と越中おわら

 「越中八尾おわら風の盆」で知られる富山市八尾町は、富山市中心部から南へ17キロ、井田川に沿った高い石垣に支えられた坂の町である。9月1日から三日間の本番そして、それに先立つ12日前からの前夜祭に11の町がそれぞれにおわら絵巻を競う。
 踊り手は、優美な色柄の木綿の浴衣の女性と羽二重の黒の法被と股引き姿の男性。ともに編笠を被っているが、驚くことなかれ、高校生などの若手が主体である。このような若者たちが優美で艶っぽい越中おわらを見事に踊り切るのも、年少より「おわら」の世界に浸り、修練を重ねてきたからであろうか。
 また、哀切なる音色で人気のある胡弓や三味線に太鼓の音、一番むつかしい民謡とも言われるおわら本調子の高音の唄、その唄をリードして踊りとの調和を図る囃子、これら地方(じかた)衆の年季の入った芸もおわらの花と言えよう。

(『辛夷』平成16年10月号掲載)

(抜粋p181) (昭和5年、二百十日会の合同句集『二百十日』での普羅の序文「風の盆」より)

 近づく三味線の音、門口で高まったかと思ふと、直ぐ、かすかになって通り過ぎる唄声、引く浪のやうな聴衆の足音、おくれた聴衆のチラバラな足音、閉ざされた家の内でも、蚊帳の中で人々は耳を澄まして居る。月は牛岳の上に小さい。その峯からは絶え間なく雲を吐いて居る。午前三時の時計が鳴った。間もなく、又廻って来た「おわら」を夢うつつに聞いた自分は、すでに戸のすき間が薄明になって居るのを見た。さすがに聴衆も減じたと見え、足音はチラバラであった。
 寒い、寒い、軽い掻巻を鼻までかけた。

(『辛夷』平成16年2月号掲載)

 最後に、中坪達哉主宰の風の盆の句「町裏は星を殖やして風の盆」を紹介します。普羅の文と併せて、おわらの情緒を味わっていただけると思います。


< 普羅57 前田普羅と「牛岳」>

 普羅は、大正13年5月報知新聞富山支局長として、まだ見ぬ「雪をかずいた立山」や「黒部峡谷」、「飛騨の国」などを思い描いて富山に赴任してきました。その普羅が八尾町で詠んだ牛岳の句を、主宰中坪達哉は、句の解説とともに地質学・地形学を好む普羅らしい文章を著書『前田普羅 その求道の詩魂』で紹介しています。その部分を抜粋して紹介します。

(抜粋p180)  牛岳の雲吐きやまぬ月夜哉

 富山県山田村から庄川町にまたがる牛岳は標高987メートル、長く横たわる山容はまさにその名のごとく牛の背のように見える。富山市街から麓までは車で50分の距離で、スキー場としても知られる。山頂直下まで車で行けるため無雪期には登山の対象にならないが、雪のある期間は頂上からの360度の眺望を楽しもうと登山客が絶えない。
 掲句は、その牛岳を風の盆の最中の八尾町から眺めたものだ。普羅は大正13年6月から八尾に来ている。町長を務めた橋爪巨籟や毛利白牛を始めとする多くの門弟が居り、同町の二百十日会と称する句会を指導していた。普羅の教えは大変厳しかったと言う。この句は、ある年の風の盆に普羅が門下生の長谷川剣星とともに八尾の町をそぞろ歩きした折りのものである。ある年とは大正14年であろう。

(抜粋p181) (普羅は『溪谷を出づる人の言葉』でもこの句を採り上げ、次のように書いている。)

 9月1日の風の盆の頃は、富山市は未だ暑いけれど、八尾町は富山よりは5度も温度が低く、夜は冷々とする。風の盆のオワラ節を町の遠くに聞いて、井田川の谷底の吊橋の上に立つと、若し月があるならば、しづかに一団々々と白雲を吐く牛岳がながめられる。西風が持って来る水蒸気が、牛岳に這ひ上り、頂の冷気で雲となるのである。


< 普羅56 前田普羅の住まい「普羅庵」>

 富山大空襲や、戦後の富山市の開発・整備事業により、普羅の住まいであった「普羅庵」を訪ねることはできませんが、主宰中坪達哉は、いろいろな資料から普羅庵について著書『前田普羅 その求道の詩魂』で述べています。その一部を紹介します。

(抜粋p159)  

 普羅庵について、中島杏子は「普羅先生の人となりと其作品」の中で、次のように書いている。「(普羅)先生の富山の仮寓は東郊の奥田村(今は市内)にあった。藩儒某の旧居で快春亭と号した茶室風な風雅な小平屋造りであった。この裏庭に面して六畳の書斎があって、庭前に大きな柳が垂れて居た。その下から富山平野にかぶさって連城のような厳めしい立山連峰がくっきりと眺められた」と、また、普羅庵が昭和4年12月に新築されたとある。
 「富山柳町のれきし」という富山市柳町校下の郷土史には、昭和10年頃の各町内の住宅地図が付録として付いている。懸命に昔の情報を集めての手作りである。中でも普羅が住んでいた弥生町がとくに丹念に描かれており、蓮田や稲刈りなど数点の挿絵入りである。その挿絵の中に、普羅庵の様子が「前田普羅邸」として描かれている。普羅庵がよほど風雅な文人の住まいとして映っていたのであろう。普羅庵を二、三軒出ればもう田圃が広がっている。今は全く市街地となったが、当時は田圃に取り巻かれた小さな住宅地であることがわかる。

  苗田水堰かれて分かれ行きにけり  普 羅

 昭和7年のこの句も、こうした普羅庵のたたずまいがわかると理解が深まる。『溪谷を出づる人の言葉』の中に自句自解があって「私の住んで居る富山市弥生町(旧奥田村)は…常願寺川の河原を尾根とする扇状地の裾野に当たる。古来、常願寺が切れれば富山市は水の底だと云はれる通り、私達の地上の運命は常願寺川の御機嫌一つに懸かって居るのだ。然し其の為めに苗田の水も稲田の水も年毎に少しの不自由も感ぜず、又私達の井戸も四時清冷な水を高く吹き上げて居るのである」とある。

(『辛夷』平成15年4月号掲載)


< 普羅55 前田普羅の「風狂」>

 主宰中坪達哉は、著書『前田普羅 その求道の詩魂』で、松尾芭蕉と山頭火の風狂の句を挙げ、その上で普羅の風狂を考察しています。ここでは、その普羅の風狂を紹介します。。

(抜粋p128) 「普羅の風狂」 

 風狂の態様は様々である。芭蕉の風狂は、多分に後世の評価を意識しつつ、風雅の誠をもとめる旅であった、と私は考えている。山頭火の場合は、生きること自体の懊悩(おうのう)から発する、自分自身ではどうにも抑えようのない、ものではなかったろうか。
 それに対して、普羅の風狂は、粋で学究的であった。
  面体をつつめど二月役者かな
  花を見し面を闇に打たせけり
  うしろより初雪ふれり夜の町
  山吹や寝雪の上の飛騨の径
など、愛誦句にそれが現れている。

 峻厳で、俳壇や社会に迎合しなかったことも、風狂の徒にふさわしいのではなかろうか。今日、真摯に高みを目指した普羅の俳句があらためて評価されつつある、ことは喜ばしい。
 中島杏子先生は「普羅先生の人となりと其作品」で
   流浪の俳句、病床の俳句、それにもまして風狂人の俳句、それを私は普羅本相の姿として
  尊とく拝される。
と述べている。「風狂人の俳句」を「尊とく拝す」とは、これまた風狂の徒の言葉といえる。

(『辛夷』平成7年11月号掲載)


< 普羅54 前田普羅の「からし菜」>

 普羅が彼と呼ぶ「からし菜」への深い思いと句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p170) 「からし菜が濃緑に」

 茎立ててからし菜雄々し勇ましし    前田 普羅

 『辛夷』表紙に特段の表示はないが、翌月の昭和7年4月号は百号記念号である。冒頭に、掲句を初句とする普羅の「からし菜」6句がある。からし菜を詠んだにしては調べが雄渾なることに驚くが、それは普羅自身の次の言葉によって納得する。「菜の花と時を同じうして彼は終に観賞植物としての新しい使命を果たして呉れた。からし菜の森林と云って自分は毎日眺めた。森林は静かであった。縁に出て約四間を離れた此の花ざかりの森林の相をながめる日が続いた。やや白みのある太い幹は燈台の如く雄々しかった。自ら蒔いたからし菜、自分と同じく雪ごもりをしたからし菜、彼の生命であって、又自分の生命であった。又彼の花ざかりの頃は殊に姿も整ひ力もこもって居た。整った姿と姿に飽和して居る力とを見て、自分の筋肉と魂に新しく湧き上がるものを感じた(『溪谷を出づる人の言葉』)と。一句を為すまでの観察力と愛情に満ちた深い思いに脱帽というしかない。ちなみに他の5句は
  からし菜が濃緑に夜や明けぬらし
  からし菜に直ぐ積りけり春の雪
  押し合へるからし菜の茎うす緑
  鳥の声からし菜の茎静まれり
  からし菜や折りて揃へてかさ高し

 私は「からし菜が濃緑に夜や明けぬらし」から次の句を思い起こす。
  プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ   石田 波郷
 ともに繊細で美しく、女性的な感性の句だ。実はこの波郷の句も昭和7年作である。波郷が上京して間もない頃である。当時、20歳近い波郷と47歳の普羅が、東京と富山の夜に、「からし菜の濃緑」と「プラタナスのみどり」を見つめている。後々、互いの句を知っていたのであろうか。

(『辛夷』平成14年6月号掲載)


< 普羅53 前田普羅の「風邪」>

 普羅の風邪の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p165) 「普羅の風邪」

 風邪人に寒月すでに上りをり    普羅

 普羅の風邪の句といえば、何句もあるが、先ず挙げたいのがこの一句である。上五、中七のカの頭韻が効いている。昭和22年の作。漂泊の誌魂と神韻縹渺たる普羅の句境を思う。

 柿甘し風邪のつのるも物ならじ   普羅

 『古春亭句集』中の昭和20年の作に、「今年は何十年になき柿の豊作にて、杏子君より幾度も柿を贈らる。風邪」と前書きのある一句である。柿が大好物の私の愛誦句である。風邪がひどくなってきているにもかかわらず、「柿甘し」「物ならじ」と詠む。そこには、大俳人・普羅というよりも人間・普羅としての素顔がある。正岡子規ではないが、柿を甘し、甘しと口にする普羅像を身近に感じる一句と言えよう。

(『辛夷』平成13年3月号掲載)


< 普羅52 前田普羅の「ハンカチ」>

 今回から普羅の残した言葉や足跡を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p106) 「ハンカチの一と隅を詠め」…普羅

 富山県俳句連盟の平成10年秋季俳句大会で、「群馬における普羅先生」と題する『群青』主宰・吉田銀葉氏の講演を聴いた。
 普羅は14歳の時に修学旅行で初めて上州を旅し、浅間山の降灰を浴びた。40歳の大正13年には、横浜から富山への転勤の途上、車窓から初めて浅間山の全姿を見た普羅であったが、その後縁があって53歳の昭和12年からは、毎年のように上州路を訪ねている。前橋、赤城山、尾瀬至仏山、そして浅間山の北の吾妻川渓谷、嬬恋村、草津温泉など各地を回り、多くの辛夷同人・誌友を育てたのであった。
  春星や女性浅間は夜も寝ねず   普羅
  吾妻の人と別れて蝶を追ふ
  きりぎりす鳴くや千種の花ざかり
  ひとすじの柳絮の流れ町を行く
  吹雪やみ木の葉の如き月あがる
 吉田銀葉氏は、昭和23年、超結社の俳句大会講師として群馬を訪れた普羅に「俳句の本質は如何に」と問うた。
 その際の問答は、次のようなものであったという。
 【(普羅)先生は、おもむろにポケットからハンカチを取り出し、「君、このハンカチを詠むとしたら、どう詠むかね」と逆に質問された。私は即答できずに黙っていたら、ハンカチの四隅を指されて、「俳句は省略の文芸だ。一隅を完全に詠めれば、他の三隅は詠む必要はない。その心が俳句の省略であり、あとは余韻・余情にまかせればよい」と言われた。(「富山県俳句連盟会報・第47号」)】
 吉田銀葉氏は、普羅のこの言葉を伝えるだけでも講演した甲斐があった、と述べられた。むべなるかな、である。
 そして、その時に、氏は
  静かにも木の葉はりつく野分かな
の短冊を貰われたとのこと。


< 普羅51 前田普羅の最後の旅:上州へ >

 普羅の最後の旅となった上州での句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p85) 山川の凍れる上の竹の影

 昭和27年2月に普羅は持病の腎臓病が再発、4月には高血圧も重なって進退不能に陥ることとなるが、それに先立つ1月末の上州での作である。普羅にとって生涯最後の旅となったが、そこは上州でも普羅がこよなく愛した吾妻川流域の地の三原や草津などであり、門人たちが親しく来訪を待ってもいた。終焉の地となる東京矢口での住いの悪さや抑えがたい漂泊精神は、体調の悪さをも顧みずに上州への旅へと駆り立てたのであった。結果的にはそれが普羅の寿命を縮めてしまうこととなる。
 『定本普羅句集』のこの句に続く「冴え返る竹緑なりゆれやまず」も、同時作であろう。「山川」とは吾妻川か、あるいは支流の四万川であろうが、一句の世界は背景をなす風物を非情なまでに見事に取り去ったものである。そこには、もう生きものの影も匂いもない、この世の温みなど未来永劫に生れないような恐ろしさもあろう。普羅が愛しやまなかった渓谷の究極の美がそこにはあるのかも知れない。そして、そこに映る「竹の影」のはかなさと美しさ。その影こそ、普羅のいのちの在り様にも似ているように思えてくる。


< 普羅50 前田普羅と最上川 >

 普羅の最上川の句を、中坪主宰は斎藤茂吉の歌や松尾芭蕉の句などと併せて鑑賞し、普羅自身の文章で情景を説明しています。それらを主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p61) 一つ行く橇に浪うつ最上川

 『定本普羅句集』ではこの句に続いて「橇の径いくつも古りぬ最上川」「最上川吹雪過ぎたる北明り」がある。最上川で吹雪といえば斎藤茂吉の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」が浮かんで来るが、茂吉の歌は戦後のものであり普羅の諸作は昭和11年のものである。普羅は、俳人ならば当然ではあるが、季節が異なるといえども「奥の細道」での芭蕉の句「五月雨をあつめて早し最上川」や、その言葉「水みなぎつて舟あやうし」を意識していたことであろう。「浪うつ最上川」にその挨拶心が見えなくもない。庄内平野と最上川を見据えた普羅の地貌の諸作といえる。
 作句の状況は普羅の臨場感ある文章で残るが、今となっては民俗学的にも貴重なものである。「橇の径は最上川の端に出た。其処で川下から川に沿った雪の切岸の上を走って来た橇の径と一緒になり、さらに太い橇の径となった。その太い橇の径の上を人が大きな橇を曳いて行く。橇は六尺の雪の切岸を最上川に踏み落しはしないかと思う程重そうだ」、そして云う「川浪は機嫌のいい時には、此の径をたどる人や橇に挨拶の手を差し出す」と。


< 普羅49 前田普羅と養蚕 >

 養蚕農家では蚕のことを「お蚕(おかいこ)」「お蚕様(おこさま)」「お蚕様(おかいこさま)」などと呼び、大切に育てていました。富山県でも江戸時代より風の盆で有名な八尾町、合掌造りで有名な五箇山などの主要産地をはじめ、各所で養蚕が人々の生活を支えていました。普羅も「お蚕(おこ)」の句をたくさん作っています。その中から、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p71) 御蚕せはし梅雨の星出て居たりけり

 養蚕は高度経済成長期以前までは全国的に行われていたが、その後は衰退の一路を辿った。「御蚕せはし」という感覚は、現代人にとってはわかりづらくなっている。養蚕の実態は、5月下旬2令(2回脱皮)した蚕から育て、5令になると繭を作る。2週間ほど世話をするが、大きくなるにつれ桑を食べる量が多くなり、世話に追われる。夜は蚕箱の間に新聞紙を敷いて2、3時間の仮眠しか取れない多忙さである。繭を乾燥させたり出荷したりして、次の蚕を飼い、10月末頃までそのような状態が続く。「御蚕せはし」を受けた「梅雨の星出て居たりけり」の語り口調的な表現は、まさに養蚕に従事して多忙を極める者としての表白のようである。風土に根差した人々の暮しを見つめてやまぬ普羅なのである。


< 普羅48 前田普羅と「鰤網」④ >

 「鰤網」①②③と、能登の海や鰤漁への普羅の思いを紹介してきましたが、今回は、富山を離れた普羅の最晩年の心情を鰤の句に読み取った主宰中坪達哉の鑑賞を、その著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p113) 東海の椿真紅に鰤来る

      鰤網を揚げれば楠の落葉かな 

 普羅は亡くなる昭和29年に、鰤の連作とおぼしき8句を残している。が、「椿真紅に」、「楠の落葉」とあるように冬季ではない。その年の立秋に没する普羅である。東海の春鰤を詠むが、普羅のこころには、冬の氷見の鰤があったのではなかろうか。句中の「椿」や「楠」は真鶴岬や伊豆でのものだが、かつて氷見海岸でよく見た、対馬暖流の影響を受けてよく茂った「椿」や「楠」をも思い起こしていたことであろう。

※東海……東海地方、 真鶴岬……神奈川県真鶴半島の先端


< 普羅47 前田普羅と「鰤網」③ >

 普羅の唱えた「地貌」を大切にして句を読むと、よりダイナミックに句の情景が立ち上がってきます。鰤漁の始まる初冬、能登をはじめとする北陸地方の雷は、その一撃の響きの恐ろしさは言うまでもなく、空も海も暗く、風も波も大荒れ、しかしながら、そこに鰤の豊漁の兆しとしての期待と喜びも併せ持っています。このような氷見の冬の海の実景をもとにした主宰中坪達哉の鑑賞を、その著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p112)  鰤網を越す大浪の見えにけり

 「鰤」や「鰤網」も季語であり、歳時記としては「鰤網」に分類される一句であろうが、内容的には「鰤起し」が詠まれている。雷鳴がとどろき、「鰤網を越す大浪」が岸辺にまで迫り来るシーンである。
 普羅は、氷見の海岸線の断崖の道を歩きながら「鰤網を越す大浪」を見ている。ルート的には現在の能登立山シーサイドライン、すなわち国道160号線ということになるが、当時は道幅も狭い断崖を削った道であった。


< 普羅46 前田普羅と「鰤網」② >

 氷見漁港は富山湾随一の水揚げを誇り、定置網漁場と漁港との距離が近く新鮮で美味しい魚を提供してくれます。仕掛けられた定置網(鰤網)の景の趣、操業する漁船、魚市場の活気、美味なる魚料理、などなど魅力的な氷見漁港での句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p112)  鰤網の見えて港に入りにけり

 「鰤網の見えて」「港に入りにけり」とあるから、船上よりの作であろう。道路事情の悪かった当時は、船による移動も多かった。富山港あたりから氷見漁港を目指したものでもあろうか。ちなみに、鰤網すなわち大敷網は、氷見沖2~4キロ、水深40から70メートルのところに張られる。浜から漁場までの時間は20から30分、網を起こすのに30分から1時間程度を要する。


< 普羅45 前田普羅と「鰤網」① >

 能登半島の東側に位置する氷見市は定置網発祥の地、その起こりは織田信長や豊臣秀吉の生きた天正年間と言われ、殊にそこで獲れる「寒鰤」の美味しさ。「地貌」を唱える普羅にとっては興味津々だったと思われます。大正13年に赴任してきた普羅の心をとらえた氷見の海、氷見漁港の活気などから生まれた「鰤網」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p111)  鰤網を押す高潮の匂ひけり

 平成13年11月に富山県氷見市において、「全国定置網新世紀フォーラム」が開催された。歓迎の中沖県知事の挨拶の冒頭で、氷見で詠まれた普羅の掲句が紹介された。「鰤網」とは普羅独特の表現である。「大敷網」とも言うが、近年では「定置網」の語が一般的である。氷見は、昔は「氷見鰯」が訛った「ひいわし」で知られていたが、今では定置網による寒鰤の産地として有名である。
 定置網という言葉は明治34年制定の漁業法に始まる。それまでは「台網」と呼んでいたが、その起源は天正年間(1573~1592)と言う。大正後期から昭和の初めに、網に入った魚が容易には網の外へ出られない「登り網」を取り付けた「落し網(大敷網)」が出現する。その後も改良され、昭和40年代には、現在のような「二重落し網」となった。網も季節ごとに網型や沈める場所を変えた、いわゆる「三季の網」から「周年の網」となった。三季とは春のイワシ、夏のマグロ、そして冬のブリであった。


< 普羅44 《海の詩人》前田普羅の地貌句「能登恋い」③>

 美しい能登の海を詠んだ普羅の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p99)  梅雨の海静かに岩をぬらしけり

 普羅が好んで染筆とした句の一つである。輪島での句会で発表された句だが、輪島を詠んだものと狭く解する必要はない。句の情趣としては、能登半島東海岸の富山湾に向く波の穏やかな内浦の風光に適うものがある。
 普羅にとって未知の地であったころの能登のイメージは、明治末に横浜の松浦為王が詠んだ〈木枯や捨て身に能登を徘徊し〉にあるような荒涼たるものであった。
 が、実際に能登を廻ってみて普羅の能登に対する思いは一変した。それは、句集名を『能登蒼し』としたことでも明らかであろうし、その序文で「捨身で徘徊しなければならない能登の荒涼さを、私は終に見ることが出来なかつた、且つまたその西北風が物凄いとは云へ、能登の東側では絶対に捨身になる程の事もないのだ」とまで言わしめた。
 普羅といえば山岳俳句のイメージが定着しているが、普羅俳句の懐は深い。普羅の地貌を見る眼は海洋にも及んだ。普羅はまた海の詩人でもあった。


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