< 普羅49 前田普羅と養蚕 >

 養蚕農家では蚕のことを「お蚕(おかいこ)」「お蚕様(おこさま)」「お蚕様(おかいこさま)」などと呼び、大切に育てていました。富山県でも江戸時代より風の盆で有名な八尾町、合掌造りで有名な五箇山などの主要産地をはじめ、各所で養蚕が人々の生活を支えていました。普羅も「お蚕(おこ)」の句をたくさん作っています。その中から、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p71) 御蚕せはし梅雨の星出て居たりけり

 養蚕は高度経済成長期以前までは全国的に行われていたが、その後は衰退の一路を辿った。「御蚕せはし」という感覚は、現代人にとってはわかりづらくなっている。養蚕の実態は、5月下旬2令(2回脱皮)した蚕から育て、5令になると繭を作る。2週間ほど世話をするが、大きくなるにつれ桑を食べる量が多くなり、世話に追われる。夜は蚕箱の間に新聞紙を敷いて2、3時間の仮眠しか取れない多忙さである。繭を乾燥させたり出荷したりして、次の蚕を飼い、10月末頃までそのような状態が続く。「御蚕せはし」を受けた「梅雨の星出て居たりけり」の語り口調的な表現は、まさに養蚕に従事して多忙を極める者としての表白のようである。風土に根差した人々の暮しを見つめてやまぬ普羅なのである。


< 普羅48 前田普羅と「鰤網」④ >

 「鰤網」①②③と、能登の海や鰤漁への普羅の思いを紹介してきましたが、今回は、富山を離れた普羅の最晩年の心情を鰤の句に読み取った主宰中坪達哉の鑑賞を、その著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p113) 東海の椿真紅に鰤来る

      鰤網を揚げれば楠の落葉かな 

 普羅は亡くなる昭和29年に、鰤の連作とおぼしき8句を残している。が、「椿真紅に」、「楠の落葉」とあるように冬季ではない。その年の立秋に没する普羅である。東海の春鰤を詠むが、普羅のこころには、冬の氷見の鰤があったのではなかろうか。句中の「椿」や「楠」は真鶴岬や伊豆でのものだが、かつて氷見海岸でよく見た、対馬暖流の影響を受けてよく茂った「椿」や「楠」をも思い起こしていたことであろう。

※東海……東海地方、 真鶴岬……神奈川県真鶴半島の先端


< 普羅47 前田普羅と「鰤網」③ >

 普羅の唱えた「地貌」を大切にして句を読むと、よりダイナミックに句の情景が立ち上がってきます。鰤漁の始まる初冬、能登をはじめとする北陸地方の雷は、その一撃の響きの恐ろしさは言うまでもなく、空も海も暗く、風も波も大荒れ、しかしながら、そこに鰤の豊漁の兆しとしての期待と喜びも併せ持っています。このような氷見の冬の海の実景をもとにした主宰中坪達哉の鑑賞を、その著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p112)  鰤網を越す大浪の見えにけり

 「鰤」や「鰤網」も季語であり、歳時記としては「鰤網」に分類される一句であろうが、内容的には「鰤起し」が詠まれている。雷鳴がとどろき、「鰤網を越す大浪」が岸辺にまで迫り来るシーンである。
 普羅は、氷見の海岸線の断崖の道を歩きながら「鰤網を越す大浪」を見ている。ルート的には現在の能登立山シーサイドライン、すなわち国道160号線ということになるが、当時は道幅も狭い断崖を削った道であった。