普羅8 前田普羅の富山移住前③ 普羅の粋 

 前々回・前回と普羅の「狂はしき姿」の句を紹介しましたが、今回は、普羅の一面でもある粋な句2句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「普羅と語る」から紹介します。

(抜粋1) 面体をつつめど二月役者かな (大正2年)(p40)
 句またがりながら「面体をつつめど」と力強く流れる調べも心地よい。いかにも、見つけたぞ、という芝居好きな江戸っ子の眼差しを思う。常套的には「面体をつつんで」とか「つつみて」となろうが、「つつめど」とした「ど」の強い響きにも、たちどころに周りの者にも伝わったざわめきも思われる。「二月役者かな」は切らずに一気に読み下す。
 団十郎か菊五郎か、宗十郎頭巾で顔を隠しての忍び歩き、しかも正月も去ってどこか淋しく料峭の風は人をそそくさと往き来させている。が、身に付いた所作は絵になり発する気品や艶っぽさは覆うべくもないのだ。「二月役者」は「にげつやくしゃ」と読みたい。料峭の季節に叶う役者の身のこなしを粋と捉えたのも、江戸情緒も残る明治の東京に育って端唄の一種の歌沢を唄い、早稲田大学に学んだ頃には坪内逍遥に師事して劇作家を目指し、自身でも舞台に立とうとしたほどに芝居好きであった普羅らしいと思えるのである。この句を発表した大正2年は横浜に在るが、一句の舞台は隅田川の川風が頬を伝うような東京の街角のようである。普羅、二十代後半にしてこの艶っぽさである。

(抜粋2) 新涼や豆腐驚く唐辛子 (大正元年)(p48)
 一読、ユーモラスな一句である。普羅のイメージとは合わないような気もするが、大正元年の普羅初期の作品である。大きくクローズアップされた純白の豆腐と赤い唐辛子との絡み合いには、どこかアニメ童話の一シーンを見るような面白さもある。素材の旨みを巧みに引き出す唐辛子であるから、豆腐としても唐辛子の手の内はとうに承知のはずである。が、今回の唐辛子の味は昨日までとは明らかに違う、とおどけにも似た仰々しさで驚きを見せている。豆腐に活き活きとしたいのちが吹き込まれている所以であろう。
 こうした句が生まれるのも、季節の移ろいに敏感であるからに他ならない。新涼の季節がやって来て、その先頭というものがあるならば、それに誰よりも早く触れたかのような驚きを、唐辛子を配した豆腐に仮託しているのである。そうした表現方法を選んだ普羅の諧謔ぶりを多としたい。また、「新涼や」という鋭い切り出し方や結びの名詞止めなど緊密な調べの心地よさは、一句に高い格調をもたらしてもいよう。現在なおユニークな一句だが、発表された大正初期の俳壇にさぞ新風を吹き込んだことと思う。

 さて今回は、普羅の粋で楽しい句を紹介しました。普羅の弟子であった中島杏子が、普羅について「少しキツイが人を引き付けるまなざし」(定本普羅句集p644)、「文学道には厳しいお方であったが、人間としては多彩な温い心の持ち主」(同p649)と回想していますが、杏子は茶目っ気のある粋な普羅の魅力を感じ取っていたのでしょう。次回は、多くの方が大好きな普羅の自然詠を紹介します。


普羅7 前田普羅の富山移住前② 主観尊重俳句に共鳴 

 前回は、普羅の「世路の術にも、心の鍛錬にも幼かった私の狂はしき姿を見る」句として代表的な「人殺す我かも知らず飛ぶ蛍(大正2年)」を紹介しましたが、今回も引き続き代表句2句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「普羅と語る」から紹介します。

(抜粋1) 花を見し面を闇に打たせけり (大正4年)(p43)
 やはり、顔ではなくて面(おもて)であらねばならない。普羅の書き残したものを読むと、作句時の普羅の面には、もう二つの面が重なっているように思えて来る。すなわち、幼い普羅が母に連れられて行った夜桜帰りの折りの、母と幼い自分自身の二つの面である。その夜のことを普羅は「御花見に行って埃だらけになるより、かうして静かな庭を見て居る方がいいね。自分にふり返りもせず、母は独言の様に云った。あかるい花と、群衆と、喚声とで茫とした母の心は、刻々にさめて行く様だ。自分の子供心からも、御花見のときめきが闇に吸収されて行くのが判った」と書いている。
 母は普羅が15歳の頃に亡くなるが、その後の継母とは折合いが悪かった。この句を詠んだのは30歳のときだが、幼少期のその夜の花見の闇が冷気をともなって普羅に纏って来たかのようでもある。母の言った「埃だらけになる」の一語は、普羅の心に圧し掛かって来る唾棄すべき社会の暗部、そして様々な矛盾から来る憤懣に耐え難くなった普羅の有り様にも通じる。格調高くして沈潜した味わいの一句。

(抜粋2) 潮蒼く人流れじと泳ぎけり (大正9年)(p47)
 冒頭に置かれた「潮蒼く」が何とも印象鮮明であり、鮮やかな潮の色彩が一句を染め抜いている。季語は「泳ぎ」であることは言うまでもないが、「潮蒼く」が青葉のころに太平洋岸を北上する黒潮をいう「青葉潮」をもイメージさせて一句を重厚なものとしていよう。この句は大正9年、普羅の横浜時代の作でありうなずけるのである。
 「人流れじと泳ぎけり」からは、汀を遠く離れた遠泳のようにも想える。が、「人流れじ」と見えるのは、汀を歩いての目撃とするならばそう遠い距離ではないはずである。潮の流れの速さは必ずしも沖合だけに限らない。穏やかに見える浅瀬でも、沖へと人を攫う潮の流れは潜んでいる。「潮蒼く」は流される人を呑まんとする、牙を隠して煌めく海の象徴かもしれない。躍動感というにはあまりにも危機感が強すぎるが、必死に泳ぐ人と作者とが一体となった緊張感がある。35歳という若い肉体が敏感に反応しているのである。
 世路に腐心していた普羅のこころを「流れじと泳ぎけり」に仮託した一句とも取れるのだが、そう決め付ける必要もなかろうが。

 いかがでしたか。普羅の強い「主観の打ち出し」の句を味わう時、読者の私たちもそれを受け止めるだけの心の強さが必要な気がします。次回は、このような時代にあっても、心が穏やかになる普羅の句を紹介しましょう。


普羅6 前田普羅の富山移住前① 

 前田普羅は、富山への移住により「次第に人生観、自然観に大なる変化を起し(『新訂普羅句集』)」と述べていますが、それでは、富山移住前の句はどのようなものだったのでしょうか。主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「普羅と越中」(p11)から紹介します。

(抜粋)
 富山移住前の句については、普羅自身「世路の術にも、心の鍛錬にも幼かった私の狂はしき姿を見る」(昭和5年刊『普羅句集』)と、述懐している。
   喜びの面洗ふや寒の水(大正2年)
   人殺す我かも知らず飛ぶ蛍 (2年)
   花を見し面を闇に打たせけり(4年)
   夜長人耶蘇をけなして帰りけり(5年)
   潮蒼く人流れじと泳ぎけり(9年)
   寒雀身を細うして闘へり(10年)
 これらの句には、普羅の主観が強く打ち出されている。「心の鍛錬にも幼かった」ゆえの、その反動としての主観の強い打ち出しではないか、と思われる。
 富山移住前すなわち横浜時代の普羅は、高浜虚子に見いだされその影響下にあった時代と言える。「大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎」と虚子をして言わしめた普羅は、虚子がその時代に唱導していた主観尊重俳句に共鳴し、その立役者となっていた。

 それでは次に、その普羅の「狂はしき姿」の最もよくわかる句「人殺す我かも知らず飛ぶ蛍」を、主宰中坪の上記著書(p39)で見てみましょう。

(抜粋) 人殺す我かも知らず飛ぶ蛍
 とにかく「人殺す我かも」は尋常ではない。「飛ぶ蛍」の危うげな浮遊は、不安定で危険な心理状態にあった普羅自身の象徴であろう。
 作句時の二十代後半の普羅をかくも悩み悶えさせたものは何か。横浜地方裁判所の書記として目の当たりにした社会の諸悪と矛盾、かてて加えてそれを要領よく平然と生きて行く人間への不信などが抑えがたき怒りとなった。当時流行っていた社会悪と自我を見つめるロシア文学作品の自然主義文学の影響も多分にあった。( 中略 )国文学を耽読した普羅であってみれば、そうした怒りも自ずからなるものであろう。そうした怒りや自然主義文学思想を俳句型式に持ち込んで世に問うたところに普羅の俳句にかけた熱い思いがある。

 このような普羅ですが、上記著書(p89)では、以下の主宰の言葉も載せられています。

(抜粋)
 ただ、そうした時代にあっても、
   春尽きて山みな甲斐に走りけり
   雪解川名山けづる響かな
   農具市深雪を踏みて固めけり
などといった丈高き普羅調の立句が多く作られているのである。

 大正期の普羅の人気句は「普羅2 前田普羅の句の魅力」で紹介しましたが、次回は主宰中坪の解説で富山移住前の普羅の句を、より詳しく紹介していきたいと思います。