< 普羅58 前田普羅と「 おわら風の盆 」>

 編み笠を目深に被った男女が、胡弓や三味線、越中おわら節の唄に合わせて、情緒豊かに坂の町を踊り流していく「おわら風の盆」は、二百十日の風を鎮め、豊年豊作を願う伝統行事です。江戸時代から踊り継がれ、今もなおニューヨークタイムズの「2025年行くべき52カ所」で紹介されるほど人々を魅了し続けています。主宰中坪達哉は、著書『前田普羅 その求道の詩魂』で、「おわら風の盆」を紹介するとともに、普羅らしい文体で記された「風の盆」の夜を紹介しています。その部分を抜粋して紹介します。

(抜粋p177)  普羅と越中おわら

 「越中八尾おわら風の盆」で知られる富山市八尾町は、富山市中心部から南へ17キロ、井田川に沿った高い石垣に支えられた坂の町である。9月1日から三日間の本番そして、それに先立つ12日前からの前夜祭に11の町がそれぞれにおわら絵巻を競う。
 踊り手は、優美な色柄の木綿の浴衣の女性と羽二重の黒の法被と股引き姿の男性。ともに編笠を被っているが、驚くことなかれ、高校生などの若手が主体である。このような若者たちが優美で艶っぽい越中おわらを見事に踊り切るのも、年少より「おわら」の世界に浸り、修練を重ねてきたからであろうか。
 また、哀切なる音色で人気のある胡弓や三味線に太鼓の音、一番むつかしい民謡とも言われるおわら本調子の高音の唄、その唄をリードして踊りとの調和を図る囃子、これら地方(じかた)衆の年季の入った芸もおわらの花と言えよう。

(『辛夷』平成16年10月号掲載)

(抜粋p181) (昭和5年、二百十日会の合同句集『二百十日』での普羅の序文「風の盆」より)

 近づく三味線の音、門口で高まったかと思ふと、直ぐ、かすかになって通り過ぎる唄声、引く浪のやうな聴衆の足音、おくれた聴衆のチラバラな足音、閉ざされた家の内でも、蚊帳の中で人々は耳を澄まして居る。月は牛岳の上に小さい。その峯からは絶え間なく雲を吐いて居る。午前三時の時計が鳴った。間もなく、又廻って来た「おわら」を夢うつつに聞いた自分は、すでに戸のすき間が薄明になって居るのを見た。さすがに聴衆も減じたと見え、足音はチラバラであった。
 寒い、寒い、軽い掻巻を鼻までかけた。

(『辛夷』平成16年2月号掲載)

 最後に、中坪達哉主宰の風の盆の句「町裏は星を殖やして風の盆」を紹介します。普羅の文と併せて、おわらの情緒を味わっていただけると思います。


< 普羅57 前田普羅と「牛岳」>

 普羅は、大正13年5月報知新聞富山支局長として、まだ見ぬ「雪をかずいた立山」や「黒部峡谷」、「飛騨の国」などを思い描いて富山に赴任してきました。その普羅が八尾町で詠んだ牛岳の句を、主宰中坪達哉は、句の解説とともに地質学・地形学を好む普羅らしい文章を著書『前田普羅 その求道の詩魂』で紹介しています。その部分を抜粋して紹介します。

(抜粋p180)  牛岳の雲吐きやまぬ月夜哉

 富山県山田村から庄川町にまたがる牛岳は標高987メートル、長く横たわる山容はまさにその名のごとく牛の背のように見える。富山市街から麓までは車で50分の距離で、スキー場としても知られる。山頂直下まで車で行けるため無雪期には登山の対象にならないが、雪のある期間は頂上からの360度の眺望を楽しもうと登山客が絶えない。
 掲句は、その牛岳を風の盆の最中の八尾町から眺めたものだ。普羅は大正13年6月から八尾に来ている。町長を務めた橋爪巨籟や毛利白牛を始めとする多くの門弟が居り、同町の二百十日会と称する句会を指導していた。普羅の教えは大変厳しかったと言う。この句は、ある年の風の盆に普羅が門下生の長谷川剣星とともに八尾の町をそぞろ歩きした折りのものである。ある年とは大正14年であろう。

(抜粋p181) (普羅は『溪谷を出づる人の言葉』でもこの句を採り上げ、次のように書いている。)

 9月1日の風の盆の頃は、富山市は未だ暑いけれど、八尾町は富山よりは5度も温度が低く、夜は冷々とする。風の盆のオワラ節を町の遠くに聞いて、井田川の谷底の吊橋の上に立つと、若し月があるならば、しづかに一団々々と白雲を吐く牛岳がながめられる。西風が持って来る水蒸気が、牛岳に這ひ上り、頂の冷気で雲となるのである。


< 普羅56 前田普羅の住まい「普羅庵」>

 富山大空襲や、戦後の富山市の開発・整備事業により、普羅の住まいであった「普羅庵」を訪ねることはできませんが、主宰中坪達哉は、いろいろな資料から普羅庵について著書『前田普羅 その求道の詩魂』で述べています。その一部を紹介します。

(抜粋p159)  

 普羅庵について、中島杏子は「普羅先生の人となりと其作品」の中で、次のように書いている。「(普羅)先生の富山の仮寓は東郊の奥田村(今は市内)にあった。藩儒某の旧居で快春亭と号した茶室風な風雅な小平屋造りであった。この裏庭に面して六畳の書斎があって、庭前に大きな柳が垂れて居た。その下から富山平野にかぶさって連城のような厳めしい立山連峰がくっきりと眺められた」と、また、普羅庵が昭和4年12月に新築されたとある。
 「富山柳町のれきし」という富山市柳町校下の郷土史には、昭和10年頃の各町内の住宅地図が付録として付いている。懸命に昔の情報を集めての手作りである。中でも普羅が住んでいた弥生町がとくに丹念に描かれており、蓮田や稲刈りなど数点の挿絵入りである。その挿絵の中に、普羅庵の様子が「前田普羅邸」として描かれている。普羅庵がよほど風雅な文人の住まいとして映っていたのであろう。普羅庵を二、三軒出ればもう田圃が広がっている。今は全く市街地となったが、当時は田圃に取り巻かれた小さな住宅地であることがわかる。

  苗田水堰かれて分かれ行きにけり  普 羅

 昭和7年のこの句も、こうした普羅庵のたたずまいがわかると理解が深まる。『溪谷を出づる人の言葉』の中に自句自解があって「私の住んで居る富山市弥生町(旧奥田村)は…常願寺川の河原を尾根とする扇状地の裾野に当たる。古来、常願寺が切れれば富山市は水の底だと云はれる通り、私達の地上の運命は常願寺川の御機嫌一つに懸かって居るのだ。然し其の為めに苗田の水も稲田の水も年毎に少しの不自由も感ぜず、又私達の井戸も四時清冷な水を高く吹き上げて居るのである」とある。

(『辛夷』平成15年4月号掲載)