< 普羅42 前田普羅の地貌句「能登恋い」① >

 普羅は、能登の自然や人々をこよなく愛していました。今回から、その普羅の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p96) 雪卸し能登見ゆるまで上りけり

 近年の地球温暖化現象でめっきり減った「雪卸し(雪下ろし)」だが、普羅の時代はそうではない。北陸の雪は水気が多くて重い。家を潰されないように、二階部分の大屋根の天辺にまで上がって雪を下ろさねばならない。命がけの作業である。「能登見ゆるまで」に能登を恋う普羅の心情がうかがえる。
能登を詠んだ作品は、昭和25年に刊行された『能登蒼し』に収録されている。同句集は普羅自身が著した最後の句集で、『春寒浅間山』『飛騨紬』と並んで国別三部作をなす。国別三部作は、普羅のいわゆる地貌論、すなわち地形や気候が異なれば植物も異なるように歴史、風土も異なり、そこでの人生も自ずと異なるから、それに適った句を作らねばならない、との考えにもとづくものである。

普羅14にも主宰の鑑賞があります)


< 普羅41 前田普羅の「奥山」③ >

 普羅の最晩年の「奥山」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p86) 花散つてゐる奥山の恐ろしき

 普羅の山の句の中でも「奥山」と詠まれたものは、「奥山に逆巻き枯るる芒かな」「人の世の奥山の草枯れて立つ」など20句余りある。昭和9年の壮年期にあっては「明るしや黒部の奥の今年雪」というように神韻たる雰囲気を漂わせながらも、まだ写生句としての足掛かりがあったが、次第に普羅にとって「奥山」は現実の世界を超えた畏敬の地と化していく。そこは、また憧憬の地ともなって行く。そして、一代の絶唱の一つ「奥白根かの世の雪をかがやかす」が生まれている。
 が、「花散つてゐる」の掲句は、一読、哀しさが伝わってくる実に閑寂な境地に至っている。亡くなる前年の昭和28年の作と知れば合点も行こうか。「明るしや黒部の奥」と詠んだ時代とは何と対照的な「奥山」であろうか。暗黒より生まれ出でて暗黒へと散りやまぬ花の乱舞が妖しいばかりだ。かく「恐ろしき奥山」も、その年の秋には、「奥山の草爽やかに刈られけり」と詠まれていることは救いである。いよいよ衰えてきた普羅が、己が苦しみから逃れんとしての心の整理をしたようにも思えてくる。


< 普羅40 前田普羅の「奥山」② >

 引き続き「奥山」の句に込められた普羅の心情を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p63) 奥白根かの世の雪をかがやかす

 「駒ヶ岳凍てて巌を落しけり」とともに「甲斐の山々」と題する五句中の一句。発表された昭和12年1月17日の東京日日新聞(毎日新聞の前身)を見ると、連載小説や映画評など読者の楽しみとする頁のど真ん中に、普羅の五句だけが囲みで載る。一連の作は発表当初から大きな反響を呼んだが、それは独り俳壇だけのものではなかったろう。
 そもそも「奥白根」という呼称はない。普羅は「奥黒部」「奥山」などと「奥」なる言葉にとりわけ思い入れが強い。三千メートルを超える南アルプスの主峰、北岳、間ノ岳、農鳥岳の白根三山を遠望しての、しかも普羅俳句の特別の主題の一つともいえる「雪」を深々と被った、その山容を「奥白根」と呼ぶに何ら違和感もない普羅であった。その「奥」なる世界は、「かの世」へと導く序詞のようでもある。「かの世の雪」といっても霊魂の世界を飾る雪ではない。小賢しい人間の知恵や懊悩などとは全く無縁の、否、普羅が行き着きたいと願う理想郷にある清浄無垢なる世界のようでもある。「かがやかす」は讃美というよりも、普羅の祈りにも似た憧憬が吐く言葉であろう。『定本普羅句集』所収。

(参照 「駒ヶ岳」の句鑑賞 普羅19へ

【甲斐の山々】
駒ヶ岳凍てて巌を落しけり
茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る
霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳
茅ヶ岳霜どけ径を糸のごと
奥白根かの世の雪をかがやかす