< 普羅51 前田普羅の最後の旅:上州へ >

 普羅の最後の旅となった上州での句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p85) 山川の凍れる上の竹の影

 昭和27年2月に普羅は持病の腎臓病が再発、4月には高血圧も重なって進退不能に陥ることとなるが、それに先立つ1月末の上州での作である。普羅にとって生涯最後の旅となったが、そこは上州でも普羅がこよなく愛した吾妻川流域の地の三原や草津などであり、門人たちが親しく来訪を待ってもいた。終焉の地となる東京矢口での住いの悪さや抑えがたい漂泊精神は、体調の悪さをも顧みずに上州への旅へと駆り立てたのであった。結果的にはそれが普羅の寿命を縮めてしまうこととなる。
 『定本普羅句集』のこの句に続く「冴え返る竹緑なりゆれやまず」も、同時作であろう。「山川」とは吾妻川か、あるいは支流の四万川であろうが、一句の世界は背景をなす風物を非情なまでに見事に取り去ったものである。そこには、もう生きものの影も匂いもない、この世の温みなど未来永劫に生れないような恐ろしさもあろう。普羅が愛しやまなかった渓谷の究極の美がそこにはあるのかも知れない。そして、そこに映る「竹の影」のはかなさと美しさ。その影こそ、普羅のいのちの在り様にも似ているように思えてくる。


< 普羅50 前田普羅と最上川 >

 普羅の最上川の句を、中坪主宰は斎藤茂吉の歌や松尾芭蕉の句などと併せて鑑賞し、普羅自身の文章で情景を説明しています。それらを主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p61) 一つ行く橇に浪うつ最上川

 『定本普羅句集』ではこの句に続いて「橇の径いくつも古りぬ最上川」「最上川吹雪過ぎたる北明り」がある。最上川で吹雪といえば斎藤茂吉の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」が浮かんで来るが、茂吉の歌は戦後のものであり普羅の諸作は昭和11年のものである。普羅は、俳人ならば当然ではあるが、季節が異なるといえども「奥の細道」での芭蕉の句「五月雨をあつめて早し最上川」や、その言葉「水みなぎつて舟あやうし」を意識していたことであろう。「浪うつ最上川」にその挨拶心が見えなくもない。庄内平野と最上川を見据えた普羅の地貌の諸作といえる。
 作句の状況は普羅の臨場感ある文章で残るが、今となっては民俗学的にも貴重なものである。「橇の径は最上川の端に出た。其処で川下から川に沿った雪の切岸の上を走って来た橇の径と一緒になり、さらに太い橇の径となった。その太い橇の径の上を人が大きな橇を曳いて行く。橇は六尺の雪の切岸を最上川に踏み落しはしないかと思う程重そうだ」、そして云う「川浪は機嫌のいい時には、此の径をたどる人や橇に挨拶の手を差し出す」と。


< 普羅49 前田普羅と養蚕 >

 養蚕農家では蚕のことを「お蚕(おかいこ)」「お蚕様(おこさま)」「お蚕様(おかいこさま)」などと呼び、大切に育てていました。富山県でも江戸時代より風の盆で有名な八尾町、合掌造りで有名な五箇山などの主要産地をはじめ、各所で養蚕が人々の生活を支えていました。普羅も「お蚕(おこ)」の句をたくさん作っています。その中から、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p71) 御蚕せはし梅雨の星出て居たりけり

 養蚕は高度経済成長期以前までは全国的に行われていたが、その後は衰退の一路を辿った。「御蚕せはし」という感覚は、現代人にとってはわかりづらくなっている。養蚕の実態は、5月下旬2令(2回脱皮)した蚕から育て、5令になると繭を作る。2週間ほど世話をするが、大きくなるにつれ桑を食べる量が多くなり、世話に追われる。夜は蚕箱の間に新聞紙を敷いて2、3時間の仮眠しか取れない多忙さである。繭を乾燥させたり出荷したりして、次の蚕を飼い、10月末頃までそのような状態が続く。「御蚕せはし」を受けた「梅雨の星出て居たりけり」の語り口調的な表現は、まさに養蚕に従事して多忙を極める者としての表白のようである。風土に根差した人々の暮しを見つめてやまぬ普羅なのである。