普羅13 前田普羅の「地貌」の句① >   

 今回からしばらく、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』より、普羅の「地貌」の句を紹介します。まずは、富山県人の心のよりどころ、立山連峰の句を見てみましょう。

(抜粋 p42)  立山のかぶさる町や水を打つ
 大正13年の富山市内中心部から立山連峰を仰いでの一句。普羅はこの年の5月に、当時は一般紙であった報知新聞の富山支局長として横浜から富山へ移住している。赴任の下相談には5分もかからずに快諾した、というほどに山岳好きな普羅であった。赴任してからは日々仰いだ立山の嶺々であった。「立山のかぶさる町」が富山の町の特徴を見事に言い当てていよう。眼前の光景を瞬時に描きとった、その大胆な把握力には驚くばかりである。後年、「地貌」論を唱える普羅だが、早い段階から句作では実践しているといえる。
 「立山のかぶさる町や」までは直ぐに出来たが、下五の結びには苦労している。その作句過程は詳らかにされている。下五を十数日は考えて「の日除かな」とするが、安定がないとして、また歩いてみて「水を打つ」と直す。が、不安が残り二三ヶ月はそのままにして置いたという。「水を打つ」という人間の小さな営みと、かぶさりやまぬ山岳の雄々しさとの対比、それが対立ではなくて統合した富山の風土を詠むことで、古来より立山を神の山として仰いできた越中人の魂に触れているように思う。『普羅句集』所収。

(抜粋 p50)  立山に初雪降れり稲を刈る
 「初雪」と「稲を刈る」との季重なりとなっているが、概して普羅の作品には季重なりが多い。自らの立つところの歴史や地質、気象などを究めて風土に根ざした作句をなさんとした普羅には、現実の事象が本然として季重なりであるのならば無理に季語を一つにすることもない、という思いがあったに違いない。
 富山平野から仰ぎ見る立山連峰、その三千メートル級の峰々を染めて初雪が降ったのである。その白々とした連山を背景にして、否、背負うような格好で人々が稲刈り作業に精を出しているのだ。「初雪降れり」「稲を刈る」と大きく二度にわたって切れながらも、調べは淀むことなく一句を全うして、大自然とそこに織り成す人々の営みを躍動的に描いている。何ら主観めいた措辞はないが、「初雪降れり」が醸し出す緊張感は稲刈り作業を急かせるのみならず、迫りたる冬将軍にも備える人々の秘めた覚悟をも思わせる。
 普羅は後年、地貌論、すなわちその土地独自の風土や歴史が表れた作句を標榜するが、その実践を早々と見るような一句である。大正14年作、『普羅句集』所収。

 普羅の「地貌」の句は、山や川、海にも空にもわたって詠まれています。引き続き、それらを主宰中坪の解説で紹介したいと思います。


普羅12 前田普羅の「「地貌」論   

 普羅の俳句の特色の一つに「地貌」論が挙げられます。主宰中坪達哉は、著書『前田普羅その求道の詩魂』で、【 普羅は、それぞれの地域の自然の特色とそこに織りなす人々の暮らしを「地貌」という観点から捉えた。「地貌」とは、もともと地表面の高低・起伏・斜面などの状態をいう言葉だが、普羅は自らの俳句の理念を示す術語として止揚した。】(p15)と述べています。また、この「地貌」論の視点から普羅の俳句を鑑賞すると、句の世界をより深く味わうことができます。今回は、主宰中坪達哉の解説で、普羅の「地貌」論を紹介します。 

(抜粋 p93)普羅の「地貌」論< 紹介① >
 「地貌」とは元々、地理用語だが、普羅は句作における「地貌」論を唱えた。すなわち、各地の地塊が異なり各独自の理想を有する地形が出来上がるように、そこでの人生にも地貌の母の性格によって独自のものを有することとなる。だから、その土地でなければ詠めない句を詠むべきである、と説くのである。

(抜粋p97)普羅の「地貌」論< 紹介② >
 国別三部作は、普羅のいわゆる地貌論、すなわち地形や気候が異なれば植物も異なるように歴史、風土も異なり、そこでの人生も自ずと異なるから、それに適った句を作らねばならない、との考えにもとづくものである。

 いかがですか? 上記2つの解説によって「地貌」論のおおよそを掴んでいただけましたら、主宰中坪の解説で、「地貌」の句を見てみましょう。

(抜粋p17) 人住めば人の踏みくる尾根の雪 『飛騨紬』
 この句には、厳しい風土に暮らす山人に向けられた普羅の熱い眼差しがある。厳冬期の山人が人里に下りてくるためには、雪の尾根を命懸けで渡って来なければならない。秋まで通った渓谷の径は雪崩の恐れがあるからだ。一読、大自然と一点の山人の構図の巧みさにうならされる。が、やがてしみじみと奥山に住む人々の哀しみが伝わってくる。「地貌の母の性格」によって独自の人生とならざるを得ないことを具体化した一句である。

 また、主宰中坪は「普羅の地貌論が世に明らかになるのは昭和21年刊の『春寒浅間山』であるが、この『普羅句集』にも、その精神がうかがえる」(p91)、「早い段階から句作では実践しているといえる」(p42)、「普羅の作品全般に共通するものと考えた方がよいのではないか」(p16)等、述べています。

 次回からは、普羅が「地貌」そのものに魅せられた句、風土とそこに生きる人々を見つめた句などを紹介したいと思います。

(抜粋)『春寒浅間山』序より
 自然を愛すると謂ふ以前にまづ地貌を愛する……此の山は、此の渓谷は、此の高原は、……それらの地貌は、地球自らの収縮と爆発と、計るべからざる永い時てふ力もて削られ、砕かれ、又沈殿集積されたる姿である。……其処に各独自の理想を有する地形が出来上って居た、一つ一つの地塊が異なる如く、地貌の性格も又異ならざるを得なかった。空の色も野山の花も色をたがへざるを得ない。謂はんやそれらの間に抱かれたる人生には、地貌の母の性格による、独自のものを有せざるを得ないのである。


普羅11 前田普羅の富山への思い   

 これからは、富山移住後の普羅とその俳句を、紹介したいと思います。今回は、普羅の富山への思いを見てみましょう。

 まず、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』から紹介します。 

(抜粋 p132)
 普羅が報知新聞(当時は一般紙)富山支局長として富山市に赴任したのは、大正13年の5月であった。富山への赴任内示を承諾するのに5分と要しなかった、という。
 普羅自身の言葉から、普羅の富山の地に寄せる熱い思いが伝わってくる。

 小学校ではじめて日本地理を学んだ時、雪国として頭に打ち込まれたのは東北地方でなく、此の越中の国であった。「雪の底の生活をせめて一冬でもやって見たい」と云ふ心は、已に十五六歳の時に芽ざして居た。一冬の生活は出来なくとも、一度は雪の越中の国を通過して見たいとまで思って居た。其の越中に住むに至って、雪の来る毎に子供の如く喜び、そして壮麗目をうばう許りの雪解の上に踊った。(『渓谷を出づる人の言葉』より)

 さて、普羅の赴任を知った「辛夷」の人たちは、いち早くその門を叩き、俳句談や古本談や旅行談に熱中したようです。街に繰り出せば普羅は粋で陽気で、弟子の中島杏子は普羅について「文学道には厳しいお方であったが、人間としては多彩な温かい心の持主であった」と述べています。(『定本普羅句集』p649)そして昭和4年4月、普羅は報知新聞社内の異動を機に社を辞して富山永住を決意します。翌5年の『普羅句集』の序では、以下のように富山を述べています。 

(抜粋)
 私には若干の愛書と、家族を容れて余りある古き二張の麻蚊帳と、昼夜清水を吐いて呉れる小泉と、ジャマン製の強力なる拡大鏡一つとがある。その上に、周囲には多くのよき友があり、之等を抱いて力強き越中の国の自然がある。(『定本普羅句集』p4)

 こうして普羅は富山の地に生きることになります。そして、美しくも厳しい自然と、そこに生きる人々の風土に根ざした暮らしを体感していきながら「地貌」論を展開し、俳句精神を深化させていきます。次回は、その普羅の「地貌」論を紹介したいと思います。