< 普羅54 前田普羅の「からし菜」>

 普羅が彼と呼ぶ「からし菜」への深い思いと句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p170) 「からし菜が濃緑に」

 茎立ててからし菜雄々し勇ましし    前田 普羅

 『辛夷』表紙に特段の表示はないが、翌月の昭和7年4月号は百号記念号である。冒頭に、掲句を初句とする普羅の「からし菜」6句がある。からし菜を詠んだにしては調べが雄渾なることに驚くが、それは普羅自身の次の言葉によって納得する。「菜の花と時を同じうして彼は終に観賞植物としての新しい使命を果たして呉れた。からし菜の森林と云って自分は毎日眺めた。森林は静かであった。縁に出て約四間を離れた此の花ざかりの森林の相をながめる日が続いた。やや白みのある太い幹は燈台の如く雄々しかった。自ら蒔いたからし菜、自分と同じく雪ごもりをしたからし菜、彼の生命であって、又自分の生命であった。又彼の花ざかりの頃は殊に姿も整ひ力もこもって居た。整った姿と姿に飽和して居る力とを見て、自分の筋肉と魂に新しく湧き上がるものを感じた(『溪谷を出づる人の言葉』)と。一句を為すまでの観察力と愛情に満ちた深い思いに脱帽というしかない。ちなみに他の5句は
  からし菜が濃緑に夜や明けぬらし
  からし菜に直ぐ積りけり春の雪
  押し合へるからし菜の茎うす緑
  鳥の声からし菜の茎静まれり
  からし菜や折りて揃へてかさ高し

 私は「からし菜が濃緑に夜や明けぬらし」から次の句を思い起こす。
  プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ   石田 波郷
 ともに繊細で美しく、女性的な感性の句だ。実はこの波郷の句も昭和7年作である。波郷が上京して間もない頃である。当時、20歳近い波郷と47歳の普羅が、東京と富山の夜に、「からし菜の濃緑」と「プラタナスのみどり」を見つめている。後々、互いの句を知っていたのであろうか。

(『辛夷』平成14年6月号掲載)


< 普羅53 前田普羅の「風邪」>

 普羅の風邪の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p165) 「普羅の風邪」

 風邪人に寒月すでに上りをり    普羅

 普羅の風邪の句といえば、何句もあるが、先ず挙げたいのがこの一句である。上五、中七のカの頭韻が効いている。昭和22年の作。漂泊の誌魂と神韻縹渺たる普羅の句境を思う。

 柿甘し風邪のつのるも物ならじ   普羅

 『古春亭句集』中の昭和20年の作に、「今年は何十年になき柿の豊作にて、杏子君より幾度も柿を贈らる。風邪」と前書きのある一句である。柿が大好物の私の愛誦句である。風邪がひどくなってきているにもかかわらず、「柿甘し」「物ならじ」と詠む。そこには、大俳人・普羅というよりも人間・普羅としての素顔がある。正岡子規ではないが、柿を甘し、甘しと口にする普羅像を身近に感じる一句と言えよう。

(『辛夷』平成13年3月号掲載)


< 普羅52 前田普羅の「ハンカチ」>

 今回から普羅の残した言葉や足跡を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p106) 「ハンカチの一と隅を詠め」…普羅

 富山県俳句連盟の平成10年秋季俳句大会で、「群馬における普羅先生」と題する『群青』主宰・吉田銀葉氏の講演を聴いた。
 普羅は14歳の時に修学旅行で初めて上州を旅し、浅間山の降灰を浴びた。40歳の大正13年には、横浜から富山への転勤の途上、車窓から初めて浅間山の全姿を見た普羅であったが、その後縁があって53歳の昭和12年からは、毎年のように上州路を訪ねている。前橋、赤城山、尾瀬至仏山、そして浅間山の北の吾妻川渓谷、嬬恋村、草津温泉など各地を回り、多くの辛夷同人・誌友を育てたのであった。
  春星や女性浅間は夜も寝ねず   普羅
  吾妻の人と別れて蝶を追ふ
  きりぎりす鳴くや千種の花ざかり
  ひとすじの柳絮の流れ町を行く
  吹雪やみ木の葉の如き月あがる
 吉田銀葉氏は、昭和23年、超結社の俳句大会講師として群馬を訪れた普羅に「俳句の本質は如何に」と問うた。
 その際の問答は、次のようなものであったという。
 【(普羅)先生は、おもむろにポケットからハンカチを取り出し、「君、このハンカチを詠むとしたら、どう詠むかね」と逆に質問された。私は即答できずに黙っていたら、ハンカチの四隅を指されて、「俳句は省略の文芸だ。一隅を完全に詠めれば、他の三隅は詠む必要はない。その心が俳句の省略であり、あとは余韻・余情にまかせればよい」と言われた。(「富山県俳句連盟会報・第47号」)】
 吉田銀葉氏は、普羅のこの言葉を伝えるだけでも講演した甲斐があった、と述べられた。むべなるかな、である。
 そして、その時に、氏は
  静かにも木の葉はりつく野分かな
の短冊を貰われたとのこと。