普羅6 前田普羅の富山移住前① 

 前田普羅は、富山への移住により「次第に人生観、自然観に大なる変化を起し(『新訂普羅句集』)」と述べていますが、それでは、富山移住前の句はどのようなものだったのでしょうか。主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「普羅と越中」(p11)から紹介します。

(抜粋)
 富山移住前の句については、普羅自身「世路の術にも、心の鍛錬にも幼かった私の狂はしき姿を見る」(昭和5年刊『普羅句集』)と、述懐している。
   喜びの面洗ふや寒の水(大正2年)
   人殺す我かも知らず飛ぶ蛍 (2年)
   花を見し面を闇に打たせけり(4年)
   夜長人耶蘇をけなして帰りけり(5年)
   潮蒼く人流れじと泳ぎけり(9年)
   寒雀身を細うして闘へり(10年)
 これらの句には、普羅の主観が強く打ち出されている。「心の鍛錬にも幼かった」ゆえの、その反動としての主観の強い打ち出しではないか、と思われる。
 富山移住前すなわち横浜時代の普羅は、高浜虚子に見いだされその影響下にあった時代と言える。「大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎」と虚子をして言わしめた普羅は、虚子がその時代に唱導していた主観尊重俳句に共鳴し、その立役者となっていた。

 それでは次に、その普羅の「狂はしき姿」の最もよくわかる句「人殺す我かも知らず飛ぶ蛍」を、主宰中坪の上記著書(p39)で見てみましょう。

(抜粋) 人殺す我かも知らず飛ぶ蛍
 とにかく「人殺す我かも」は尋常ではない。「飛ぶ蛍」の危うげな浮遊は、不安定で危険な心理状態にあった普羅自身の象徴であろう。
 作句時の二十代後半の普羅をかくも悩み悶えさせたものは何か。横浜地方裁判所の書記として目の当たりにした社会の諸悪と矛盾、かてて加えてそれを要領よく平然と生きて行く人間への不信などが抑えがたき怒りとなった。当時流行っていた社会悪と自我を見つめるロシア文学作品の自然主義文学の影響も多分にあった。( 中略 )国文学を耽読した普羅であってみれば、そうした怒りも自ずからなるものであろう。そうした怒りや自然主義文学思想を俳句型式に持ち込んで世に問うたところに普羅の俳句にかけた熱い思いがある。

 このような普羅ですが、上記著書(p89)では、以下の主宰の言葉も載せられています。

(抜粋)
 ただ、そうした時代にあっても、
   春尽きて山みな甲斐に走りけり
   雪解川名山けづる響かな
   農具市深雪を踏みて固めけり
などといった丈高き普羅調の立句が多く作られているのである。

 大正期の普羅の人気句は「普羅2 前田普羅の句の魅力」で紹介しましたが、次回は主宰中坪の解説で富山移住前の普羅の句を、より詳しく紹介していきたいと思います。


普羅5 前田普羅は「山岳俳人」か? 

 前田普羅の山岳詠は絶唱が多く、その人気の高さから、普羅は山岳俳句の第一人者と言われています。また「山岳俳人」とも言われてきました。しかし、主宰中坪達哉は、著書『前田普羅その求道の詩魂』の「山岳俳人と呼ばれるが」(p8)において、普羅は「山岳俳人」と容易には言えないと述べています。今回はその理由を紹介します。

 (抜粋)
 普羅と言えば山岳俳人というイメージが少なからずあるようだ。山岳俳人とは専ら峻厳なる高山を登攀して作品をなす俳人、のことであろうか。となれば、普羅は必ずしも山岳俳人とは言えない。
 アルピニストというわけでもない普羅が、なぜ山岳俳人と呼ばれるようになったのか。それは、一に昭和12年(1937)1月の東京日日新聞に発表された「甲斐の山々」5句の大反響とその後の喧伝によるものと思われる。
   茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る
   霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳
   駒ヶ岳凍てて巌を落としけり
   茅ヶ岳霜どけ径を糸のごと
   奥白根かの世の雪をかがやかす
 わけても、<駒ヶ岳>と<奥白根>の句は普羅の代名詞のようになっている。
 しかし、ここで注目したいことは、普羅の山行は岳人として絶巓を極めたり冬山を踏破したりするものではなかったということだ。普羅は自らを「渓谷を出づる人」と称したように、渓谷深く分け入り、山の精霊の直中に身を置いて峻厳なる嶺々と相対した。
(中略)
 また、『定本普羅句集』にある生涯の作品群を見ても、意外に山岳詠が少ないことがわかる。
 普羅は世間で思われているほど「山岳俳人」ではない。山岳詠は普羅俳句の大きな特色ではあるが、決して全てではないのだ。普羅に容易に「山岳俳人」の名が冠せられては、普羅俳句の全貌が伝わりにくいこととなろう。

 谷の奥深くに入った普羅は、自身で「降りかかる大自然の力に身を打ち付けて得た句がある」(普羅句集『序』)と言っているように、静かに大自然と対話をしていたのです。その時の普羅の言葉が、上記(中略)の個所で、以下の通り紹介されています。
  ・(渓谷に)人を遁れて来たのではない、自分の心を結び付くる「永久」をさがしに来たのであった。
また、
  ・(渓谷に)入る時は出る時を期して居なかった。
  ・一人の友は、自分が山を出て来る時をたとえて、「出山の仏陀の様に」と云った。
 これらの普羅の言葉から、普羅が心のまま好きなだけ自然の中に身を置いたこと、そのため、渓谷から出て来た普羅の姿は、6年の苦行を終えて山を出た時の釈迦の姿と同じように「髪や髭は伸び放題、体は骨と皮だけだ」と、友人から半ば呆れられ、同時に畏敬されていたことが伺われます。

 さて、これから折々に紹介していく自然を詠んだ普羅の句の解説のなかには、
  ・自然の底知れぬ力と魅力に全身で真向った
  ・渓谷に入っては己が安心立命を図ろうとする普羅の自然への親愛
  ・自然の息吹との交感に喜ぶ姿
  ・山霊に抱かれて魂の救済を求めんと彷徨するがごとき
といった主宰中坪の言葉が登場します。普羅の自然への憧憬の句、求道の句、どうぞご期待ください。


普羅4 前田普羅の立春の句「オリオンの真下春立つ雪の宿」 

 令和3年1月9日、富山市で124cmの積雪を記録し、翌10日には128cmとなりました。100cmを超えたのは昭和61年以来、35年ぶりだそうです。ちなみに昭和14年の観測開始以降、最大は翌年の昭和15年の208cmですから、富山市に定住していた普羅はこの大雪を体験していることになります。昔は今と違って毎年の大雪が当たり前だったと聞きますから、雪国の人々の春到来の喜びは、今よりずっと大きかったことでしょう。令和3年の立春は2月3日です。そこで今回は、普羅の立春の句について、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「普羅の永住の地」(p130)から紹介します。

 (抜粋)オリオンの真下春立つ雪の宿   普羅
 雪の宿は、富山移住後間もない普羅の自宅を指す。富山城址公園内に立つ普羅文学碑5句中の1句で、大正末の作。掲句には普羅の自解があるので引く。
 オリオンは冬のはじめになると、宵の口から立山の上にかかげられる。冬が更けると共に、オリオンは高く高く昇って来る。「花火」の様なオリオン星座を冬の空に見出すのは左程に困難でない程、其れは美しい姿である。春立つとは云え、雪は毎日降りしきる。我々裏日本(現 日本海側)に居る者の俳句には、春と云っても常に雪を添えなければ真実を伝える事は出来ないのである。
 一夜雪は晴れた。空を仰ぐと、其れと目につくオリオンは天頂に来て居た。宵の口にオリオンが天頂に来て居るのは、雪は如何に降るとは云え、最早、暦の明示する通り春が立って居る証拠である。自分の小さな家はオリオンの真下にあって、雪をかぶって居る。
 やがて雪解がはじまる。光明と自由とが帰って来る。自分の心は又しても母にめぐり会った子供の如く喜びに打たれる。オリオンの真下の雪の宿を出て、オリオンの真下の富山市中や、奥田村の村道をあるき廻った。

 今回の掲句と普羅の自解の文章はとても美しく、壮大な天空と澄みきった地上の世界とが心地よく感じられます。灰色の雪雲が頭上から消えた解放感、美しい星々、白銀の雪、冷たく清浄な空気。雪を被いた家々の灯。そして何より春到来を告げる天頂のオリオン。実際の富山の春は、まだまだ先ですが、春立つ喜びを「光明と自由とが帰って来る」と表現した普羅。雪が大好きな普羅ですが、春が来た喜びの心を抑えかねて歩き廻るのもまた普羅なのです。