< 普羅32 前田普羅と「御仏」>

 今回は、普羅のこころに響いた「御仏」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p84) 御仏を見し眼に竹の枯るるなり

 「御仏を」と詠んで、大和路にての作ではなくて佐渡でのものであることも面白い。晩年にかけての普羅の動きは実に活発である。娘の明子が結婚して独りとなってからの、すなわち昭和23年以降の足取りをたどって見ても、佐渡、大和、四国、伊勢、大和、東京の各地と巡り、同26年5月には四国、丸亀、そして6月にまた佐渡へと渡って、この句を詠んでいる。『定本普羅句集』ではこの句の前に「梅雨仏一指に印を結び居り」があって、その前書きに「真野村国分寺に薬師仏拝観」とある。その数句前には「竹の秋笹も秋なる佐渡に来ぬ」や、「韃靼の方は青空梅雨の海」などの吟も見られる。
 「御仏」とは、「延喜式」にもあり幾多の災禍からも難を免れてきた薬師如来像である。広く張った肩や胸など平安時代前期の彫りを伝えていて大らかで気品に満ちた御仏の像は、人生のための芸術に難渋して漂泊やまない普羅のこころには、さぞ美しくありがたく映ったのではなかろうか。そして、そんな眼に映る「竹の枯るるなり」は、御仏の功徳を感受して胸が熱くなっての反語的な表現のようにも思えるのであるが。


< 普羅31 前田普羅の「山吹と寝雪」>

 今回は、普羅の「山吹と寝雪」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p69) 山吹や寝雪の上の飛騨の径

 先ず、「寝雪」は「根雪」の誤植と思われようか。辛夷社刊『定本普羅句集』でも原典の『飛騨紬』(昭和22年)でも、この句のみならず「寝雪照るや」「寝雪につづく」などと用例が見られ、それは門人にも及んでいる。雪に圧倒されながらも雪を愛し雪の側に立っての「寝雪」という感覚である。情感としては「根雪」を凌駕するものである。山吹も普羅の好きな花である。普羅は少年の頃に読んだ『日本風景論』の「奥飛騨の春」と題した表紙絵にも感動して「奥飛騨の春を見得ることは換ゆるものなき自分の幸福となって居た」と書いているが、その絵には水に反る両三枝の山吹が描かれていた。『飛騨紬』にある「山吹にしぶきたかぶる雪解瀧」の句も現でもあり普羅の理想郷の光景でもあろう。
 春もたけなわというのに、寝雪の上を滑るように飛騨の径があるのだ。しばし歩を止めもする普羅だが、これこそ飛騨の国、こういう生の飛騨の国の貌を見たかったのだ、と直ぐにも得心して目を輝かせながら歩み出すのである。同句集には「飛騨人や深雪の上を道案内」の句もある。歩きたくなるような「寝雪の上の径」である。


< 普羅30 前田普羅の「鞦韆と小商人」>

 今回は、普羅の「鞦韆と小商人」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p45) 鞦韆にしばし遊ぶや小商人

 今日では「小商人(こあきんど)」という言葉も反って新鮮に響く。作句当時の大正末年あたりでは、さまざまな分野で僅かな元手による行商などの小商いが盛んであった。富山へ移住して間もない頃であり、柳行李を傍らに置いた「売薬さん」なども親しい存在であったろう。
 たまたま子供たちも居ない日中であろう。歩き詰めによる疲れを癒す風でもない。「遊びし小商人」などとせず、「遊ぶや」と切るところに普羅の思いが籠る。「しばし遊ぶや」の哀しげな余韻が気になるのである。シュウセンの響きも冷たい。子供の頃への郷愁もないではないが、ブランコに軽く身を置いて漕ぐでも漕がぬでもない小商人の姿に、行く末に対する漠然とした不安を抱きながら日々流されている普羅自身を重ね合わせているようでもある。小商人を眺めても、その生きざまにまで思いを致す普羅であった。
 後年、普羅は「越中に移り来りて相対したる濃厚なる自然味と、山岳の威容とは、次第に人生観、自然観に大いなる変化を起こし」と述べているが、そうした変化が兆しつつあった時期の滋味深い作品として読む。『普羅句集』所収。