< 普羅45 前田普羅と「鰤網」① >

 能登半島の東側に位置する氷見市は定置網発祥の地、その起こりは織田信長や豊臣秀吉の生きた天正年間と言われ、殊にそこで獲れる「寒鰤」の美味しさ。「地貌」を唱える普羅にとっては興味津々だったと思われます。大正13年に赴任してきた普羅の心をとらえた氷見の海、氷見漁港の活気などから生まれた「鰤網」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p111)  鰤網を押す高潮の匂ひけり

 平成13年11月に富山県氷見市において、「全国定置網新世紀フォーラム」が開催された。歓迎の中沖県知事の挨拶の冒頭で、氷見で詠まれた普羅の掲句が紹介された。「鰤網」とは普羅独特の表現である。「大敷網」とも言うが、近年では「定置網」の語が一般的である。氷見は、昔は「氷見鰯」が訛った「ひいわし」で知られていたが、今では定置網による寒鰤の産地として有名である。
 定置網という言葉は明治34年制定の漁業法に始まる。それまでは「台網」と呼んでいたが、その起源は天正年間(1573~1592)と言う。大正後期から昭和の初めに、網に入った魚が容易には網の外へ出られない「登り網」を取り付けた「落し網(大敷網)」が出現する。その後も改良され、昭和40年代には、現在のような「二重落し網」となった。網も季節ごとに網型や沈める場所を変えた、いわゆる「三季の網」から「周年の網」となった。三季とは春のイワシ、夏のマグロ、そして冬のブリであった。


< 普羅44 《海の詩人》前田普羅の地貌句「能登恋い」③>

 美しい能登の海を詠んだ普羅の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p99)  梅雨の海静かに岩をぬらしけり

 普羅が好んで染筆とした句の一つである。輪島での句会で発表された句だが、輪島を詠んだものと狭く解する必要はない。句の情趣としては、能登半島東海岸の富山湾に向く波の穏やかな内浦の風光に適うものがある。
 普羅にとって未知の地であったころの能登のイメージは、明治末に横浜の松浦為王が詠んだ〈木枯や捨て身に能登を徘徊し〉にあるような荒涼たるものであった。
 が、実際に能登を廻ってみて普羅の能登に対する思いは一変した。それは、句集名を『能登蒼し』としたことでも明らかであろうし、その序文で「捨身で徘徊しなければならない能登の荒涼さを、私は終に見ることが出来なかつた、且つまたその西北風が物凄いとは云へ、能登の東側では絶対に捨身になる程の事もないのだ」とまで言わしめた。
 普羅といえば山岳俳句のイメージが定着しているが、普羅俳句の懐は深い。普羅の地貌を見る眼は海洋にも及んだ。普羅はまた海の詩人でもあった。


< 普羅43 前田普羅の地貌句「能登恋い」②>

 能登の美しさや人々の生活を詠んだ普羅の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p97) 蝮捨てに出でて福浦に顔うつる

 蝮を「はみ」と古語で読ませる。福浦港は中能登・富来町にある小さな入り江の天然の良港である。奈良、平安の時代には大陸の渤海国との交流の基地となり、江戸時代には北海道と大阪を往き来した北前船の寄港地としても栄えた。打ち殺されたであろう蝮とそれを捨てに出た人間の顔が映る入り江の水は、研ぎ澄まされたかのように蒼く澄んでいる。

※福浦港(ふくらこう);石川県羽咋市