前田普羅<56>(2025年6月)
< 普羅56 前田普羅の住まい「普羅庵」>
富山大空襲や、戦後の富山市の開発・整備事業により、普羅の住まいであった「普羅庵」を訪ねることはできませんが、主宰中坪達哉は、いろいろな資料から普羅庵について著書『前田普羅 その求道の詩魂』で述べています。その一部を紹介します。
(抜粋p159)
普羅庵について、中島杏子は「普羅先生の人となりと其作品」の中で、次のように書いている。「(普羅)先生の富山の仮寓は東郊の奥田村(今は市内)にあった。藩儒某の旧居で快春亭と号した茶室風な風雅な小平屋造りであった。この裏庭に面して六畳の書斎があって、庭前に大きな柳が垂れて居た。その下から富山平野にかぶさって連城のような厳めしい立山連峰がくっきりと眺められた」と、また、普羅庵が昭和4年12月に新築されたとある。
「富山柳町のれきし」という富山市柳町校下の郷土史には、昭和10年頃の各町内の住宅地図が付録として付いている。懸命に昔の情報を集めての手作りである。中でも普羅が住んでいた弥生町がとくに丹念に描かれており、蓮田や稲刈りなど数点の挿絵入りである。その挿絵の中に、普羅庵の様子が「前田普羅邸」として描かれている。普羅庵がよほど風雅な文人の住まいとして映っていたのであろう。普羅庵を二、三軒出ればもう田圃が広がっている。今は全く市街地となったが、当時は田圃に取り巻かれた小さな住宅地であることがわかる。
苗田水堰かれて分かれ行きにけり 普 羅
昭和7年のこの句も、こうした普羅庵のたたずまいがわかると理解が深まる。『溪谷を出づる人の言葉』の中に自句自解があって「私の住んで居る富山市弥生町(旧奥田村)は…常願寺川の河原を尾根とする扇状地の裾野に当たる。古来、常願寺が切れれば富山市は水の底だと云はれる通り、私達の地上の運命は常願寺川の御機嫌一つに懸かって居るのだ。然し其の為めに苗田の水も稲田の水も年毎に少しの不自由も感ぜず、又私達の井戸も四時清冷な水を高く吹き上げて居るのである」とある。
(『辛夷』平成15年4月号掲載)