辛夷草紙<72>(令和7年6月)

<草紙72> 辛夷同人 寺﨑治郎氏の空襲体験記「一冊の歳時記」(『辛夷』令和7年5月号掲載 )

 令和7年、戦後80年の節目にあたって「富山大空襲を語り継ぐ会」の取り組みを新田知事が支援する考えを示し、後押しする議員連盟が発足したという報道があった。「富山大空襲を語り継ぐ会」からは、常設展示施設の設置をはじめ、大空襲を含めた戦災資料の収集・保管や語り部活動への支援が要望されたという。

 そのような戦災資料展示館の一つが、東京の江東区にある「東京大空襲・戦災資料センター」である。そのセンターでつくられた『東京大空襲・戦災誌』全五巻がある。その第一巻(1973年刊)に、辛夷同人で本所区向島に住んでいた寺﨑治郎氏の「一冊の歳時記」が収録され、寺﨑氏直筆の原稿もセンターに保管されている。その内容は、まさしく「空襲による炎のなか、どのような人たちが、どのような体験を強いられたのかを記録した」そのものだ。(〈 東京大空襲80年特別展―空襲体験を記録する/伝える 〉より)

 その「一冊の歳時記」の冒頭部分に、句友の大野佳女(よしじょ)さんの栃木県の実家に疎開荷物を送る準備を終えた記述があり、【 荷物のなかには、私たちが同人としてつらなる、前田普羅主宰の俳句雑誌「辛夷」があった。お互いに欠本を補って、昭和9年頃のものから、19年4月号で休刊になるものまでの、約10年間を全部揃えて、大切に包んだものである。虚しいことと思ったが、死んでも何かを誰かに、残そうとしたために―】とある。また、寺﨑氏の自宅にも火の粉が舞う緊迫の場面では【 私は家を放棄するときにはと、いつしか書棚から一冊の歳時記をポケットに入れていた】と記されている。

 この「死んでも何かを誰かに、残そうとした」という寺﨑氏の言葉に心をとめたのが戦災誌研究会の「空襲体験記の原稿を読む会」である。その代表の山本唯人氏から「この体験記に込めた寺﨑さんの真意を知るには(俳誌「辛夷」が)大変重要なものと思われ、その所在を突き止めたく、探しています」と令和6年10月辛夷社ホームページへ問い合わせがあった。こうして私は初めて寺﨑氏の空襲体験記「一冊の歳時記」を知ることとなったのである。

 幸いにも富山県立図書館の「中島文庫」を紹介することができ、山本氏は11月に来県されて昭和9年1月号から昭和19年3月号までの『辛夷』を通覧し、寺﨑氏と、空襲体験記に登場する大野佳女さん、舟木己栖(きせい)氏の三人の掲載句や随筆、東京辛夷句会の動向などを調査された。そしてその調査報告「東京辛夷俳句会―うたのない時代への自注」を作成し、辛夷社へも報告してくださった。調査報告では「雑誌休刊後の一年八か月、俳句の創作が止んだ一時期がありました。寺﨑にとって、空襲体験記を書くとは、その俳句によってはたどれない空白の、重大な転回点を過ごした自分の姿について、俳句とは違った方法で自注するような行為だったと言えるでしょう」とまとめられている。

 ここで改めて、大先輩である寺﨑治郎氏を紹介したい。大正4年11月15日魚津市生まれ、大正13年上京。戦後の2年間を除いて墨田区向島に住む。平成19年10月逝去。中坪達哉主宰の東京単身赴任時代の句会の先生。「五岳集作家」(昭和56年)、「辛夷同人会長」。句集『浅草図絵(昭和57年)、『続・浅草図絵』(平成4年)上梓。

 また、戦争前後の『辛夷』の巻頭を飾った作品から、当時の寺﨑氏の俳風を感じてみたい。

巻頭作品(前田普羅選)          

  曼殊沙華渡船の水尾に捨てらるる(昭和14年)

  僧ヶ岳けぶり北国しぐれかな(昭和17年)

巻頭作品(中島杏子選)

  風鈴の売られゆくときりりと鳴る(昭和29年)

  かりがねや浅草図絵の中のわれ(昭和32年)

  鶏はおどろき易し麦の風(昭和32年)

  最後に「一冊の歳時記」は、寺﨑氏と恩師普羅との心のつながりを示す文章で締めくくられているので、引用する。(『浅草図絵』より)

 私は、俳句雑誌「辛夷」が休刊して以来、作句を絶っていた。しかし富山に住む前田普羅先生には、毎日のようにハガキを書いた。いずれは、路傍に横死する自分を思って、日ごとの遺書のつもりで、それを続けた。四、五日便りを怠ると、普羅先生はせっかちに催促の便りをよこした。ところが運命はどうも皮肉にできていた。八月一日の空襲で、富山市郊外の普羅居はその充棟の書とともに炎上した。もちろん私の遺書ともいうべきハガキともども。逆に焼け残って終戦の日を迎えた私の手もとに、先生のその頃の便りがいく通も残った。普羅先生は二十九年八月に亡くなられたが、その恩師の一端をしのぶために、ここに当時の一通を書きとどめたい。

 ご奮闘の程、安心しました。大野姉妹の負傷の上、貴宅に収容されたる由、何より。本日舟木君より来書、三月九日の大火災にて一家全部戦死せりとは何たる悲報ぞ、只ひとりになりたる己栖君は左記にあり

     (住所等略)

 悲報を信ぜざらんとせり、然れども信ぜざるを得ず。御ハガキにありし文「己栖のみ見かけたる人あり他不明」は早くも己栖君の大悲報を予想せしめし所、その翌日悲しき確報は来れり、照次君の二人の子供も、洋服屋さん夫婦も戦死の由なり。

 富山はまた雪ふる。今日は何事も出来ず、炬燵に面を伏せて、東京の友を思へり。治郎君シッカリやってくれ給へ、空襲では負けるものではない、負けると思った者が負けるなり 三月十六日 早々 

(東京空襲を記録する会”東京大空襲第一巻”所載)  ※『辛夷』は昭和19年4月号から休刊、昭和21年1月号復刊

 私も富山大空襲の記録資料に接する度に平和への思いを強くするが、寺﨑氏の東京大空襲の描写に生死の極限に放り込まれた感覚を、そして何より「よく生き延びてくれた」という安堵感で読み終えることができた。また、「一冊の歳時記をポケットに」という寺﨑氏の俳人たる姿に心動かされ、普羅のハガキにも普羅の温かさを感じることができた。この「一冊の歳時記」は、寺﨑治郎氏の句集『浅草図絵』(昭和57年 東京美術)の巻末に再掲載されているので、図書館などでご覧いただければと思う。また、「東京辛夷俳句会―うたのない時代への自注」のWEBページで、直筆の写真などと一緒に紹介されている。

 令和6年『辛夷』創刊百周年の年に「空襲体験記の原稿を読む会」の方々のおかげで、先達の寺﨑治郎氏の後をたどることができ、辛夷俳句の精神を継ぐ思いをもって令和7年を迎えることができましたことに厚くお礼申し上げます。

令和7年1月 岡田 康裕

「東京大空襲・戦災資料センター」https://tokyo-sensai.net/ 

「空襲体験記の原稿を読む会」 https://note.com/sensaishiken/n/nd8c3f4689687

「東京辛夷俳句会—うたのない時代への自注」 https://note.com/sensaishiken/n/nf6c0846b8ae1