『辛夷』創刊百周年記念大会 中坪達哉主宰挨拶(令和6年5月12日)
< 俳人としての心のあり方 >
『辛夷』創刊100周年、この記念すべき日に皆様方と、このように親しくお会いできることを大変幸せに思っております。『前田普羅 季語別句集』の発刊から始まりまして、記念特集号、ホームページのリニューアル、そして本日の記念大会にあたりまして、ご尽力いただきました皆様方に感謝いたします。そして、100周年事業にご支援、ご協力をいただきました同人・誌友の皆様方に、心より感謝申し上げます。どうもありがとうございました。
『辛夷』、毎号、これは皆様方、お一人お一人の俳句作品の投句、その結晶とも言うべきものであります。皆様方、お一人お一人の毎月の弛まざるご投句、ご健吟を心より称えたい、本当に素晴らしいと、心から思っております。皆様方お一人お一人に、おめでとうございますと私は申し上げたいと思います。
100周年、そして今、101年目になりました。大正13年の正月号を手にした、ごく少数の方は、今日のこの姿を想像していたでしょうか。絶対、想像していなかったと思います。この世に魂というものがあるならば、さぞ驚いておられるだろうと思います。
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100年、何が変わったかと言いまして、一番変わったことは、日本の俳句が世界のHAIKUになったということであろうかと思います。これは、普羅先生といえども、大虚子といえども、想像していなかったと思います。
明治の初めに、文明開化がありました。どういう文化、文芸がありますかという話になったときに、近代詩がどうの、小説がどうのという話がありました。そのときに、高浜虚子が後ろから、ひょろひょろと手を挙げて「日本には俳句というものもあるのですけれども」と言った話が伝わっております。
そのひょろひょろと後ろから、か細い声で「日本には俳句というものがあるのですけれども」と言った日本の俳句が、今や世界のHAIKUであります。そういったことを象徴的に示すかのように、なんと天皇陛下(当時は皇太子様)が世界へ向かって、前田普羅の俳句を発信してくださいました。『立山のかぶさる町や水を打つ』という句です。平成27年、当時の皇太子様はニューヨークの国際連合本部で「水と災害に関する特別会合」の基調講演をなさいましたが、その結びで「私は前田普羅の、この俳句が好きです」と、『立山のかぶさる町や水を打つ』の句を紹介されたわけです。
もちろん英語です。普羅の句を英語で
Overlaying the quarter
Is Mt. Tateyama in the background
There, water is sprinkled
To cool the streets
と、世界へ発信されたのであります。
こういう大きなこととは別に、私自身も、ごく身近に、俳句の国際化というものを、ひしひしと感じております。富山県芸術文化協会は、ハンガリーのハイドゥ=ビハール県のデブレッツェン市の文化団体と芸術文化交流協定を結んでおります。演劇を中心に数十年来の文化交流がありますが、トップが変わった場合、あるいは組織が改編された場合は、協定書を改めて取り交わすということになっているそうです。そこで、今度は向こうから、トップの方が二人来られ、先月4月の4日、富山市で協定の改定、協定調印、歓迎昼食会となりました。
そのことと、私は何の関係もないとずっと思っていましたが、富山県芸術文化協会の名誉会長と会長さんから、「向こうは俳句が盛んなので、俳句の話が出る。とにかく顔を出して彼らと話をしてほしい」と数年前から言われておりまして、「今度はぜひ」ということで、出掛けていきました。
歓迎会にはイシュトヴァーンという芸術監督さんも見えまして、通訳さんを通して話をしましたが、ハンガリーでは俳句大会が頻繁に行われていると聞いて驚きました。そのイシュトヴァーン芸術監督さんは俳句を作っていないのですが、私との会話の中では立派な俳人でした。「俳句は、世界最短詩型の、言葉を省略して、宇宙を描けるのですね」と熱く語られます。
俳句を作っていないという割には詳しい。イシュトヴァーンさんは芭蕉の『古池や蛙飛びこむ水の音』を日本語でおっしゃって、さらに「日本語では『水の音』で、結びが、調べが整う。この『水の音』をハンガリー語でどう表現するか、難しいのです」とおっしゃる。こういう高邁な話を、パーティーの会場でするような話でない話を、さらりとなさるのです。「ああ、なるほど」と名誉会長さんから「一緒に来てほしい」と依頼された理由が、よくわかりました。
このように、私らが思う以上に、国際化の波が、もう世界にHAIKUが、普及しているということであります。ということはどういうことかと言いますと、日本の俳句が、その世界最短詩型の魅力というものが、むろん17音というわけではない短詩型ですが、その魅力が随分、熟知されて、広がっているということです。私たちの作っている俳句が、世界の俳人の、実はお手本なのであります。考えようによっては、日本の俳句が、世界のHAIKUを牽引していると言えます。
今では、柔道は世界のJUDOです。これと同じようなことになるのではないかという気がします。現に、俳句団体と自治体、行政では、俳句をユネスコの世界文化遺産に登録しようと運動しています。私たちの後ろには「世界の俳人が、うわーっといる」ということは紛れもない事実なのです。私たちはそういうところに位置しているのだ、ということは紛れもないことなのです。そう思うと、同じ句を作っても、違うのではないかと。これは、昔の俳人にはなかった発想なのかと思います。
それと、もう一つ思うのは、外国語が堪能な人に、ぜひ俳人の世界へおいでいただきたいということです。外国語、とりわけ英語が堪能な方はたくさんいますけれども、俳句は独特ですから、俳句文芸に熟知していないと、翻訳できないのです。外国語が堪能な方にお声掛けして、いわゆる「日本の俳人」にもなっていただきたい、これを切に思っております。皆さんの周りにおられましたら、お声掛けしていただきたいと思います。
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また、昔の人が全く想像しなかったことがAIの登場であります。AIというのは人工知能ということで、Artificial Intelligence(アーティフィシャル インテリジェンス)ですが、簡単に言えませんからAIなのですね。特に、アイデアの部分を表現できる生成AIというのが、今日、だんだん普及してきています。
一番驚きましたのは、先般の芥川賞を『東京都同情塔』で受賞された、九段理江さんが、受賞の記者会見で「私の小説の5パーセントがAIで作ったもの」と、堂々と言っているのです。5パーセントだからいいけれども、60パーセントだったら、どうなるのですかねという時代になりました。
また、将棋の藤井聡太八冠。今、叡王戦ですね。その藤井聡太八冠、あるいは、同世代の人たちが、同じようにAIで練習しています。AIを駆使している者同士なのです。藤井聡太八冠が勝った勝負を見ますと、藤井八冠はAIが想像し得なかった手で勝ったというのもありました。実は藤井八冠にちょっとしたミスが起きたようで、熟考していたがために相手が混乱して、勝ったという試合もありました。
また、『俳壇』の12月号に、長谷川櫂氏と短歌の坂井修一という先生の「俳句とAI」という座談会の掲載がありました。坂井修一先生は、東大の副学長で、情報工学の専門家とありましたが、このお二人の見解は、結論を言いますと、俳句によるAIの利用は、正確に言いますと、「本当のAIはまだまだ何十年も先と予測します」ということでした。
他にも、北海道大学の調和系工学研究室で、AI一茶くんというAIがありまして、これで俳句を作っているのですが、俳句の専門家が見て、いいものはあるけれども、駄目なものが多いという、そういう状況で、あまり役立っていないようです。
それで、我々はどうするか。AIはたくさんの情報を分析、検索、それには優れています。AIを利用すれば、俳句を学ぶことはできます。昔の人が及びもしなかったスピードで、俳句通にはなります。しかし、「俳句を知っている」ということと、「俳句を作る」ということは全く別問題です。俳句通になって、自分は俳句もできるのだと勘違いする人が、どんどん増えていくのではないかと危惧されます。
そうなりますと、私個人的には類句、類想が増えていくのではないかと思います。現代でさえも、類句、類想に、壁を乗り越えられない人が多い中で、AIによって分析だとか検索だとか、いろいろなもののスキルで、俳句通になればなるほど、頭でっかちになって、感性のほうが薄くなる。
AI、生成AIの活用は、「俳句通にはなるけれども、俳句を作るということとは全く別ですよ」ということを、ご認識いただきたいと思います。皆さんも、パソコンを駆使してAIを利用しても、誤解されませんように。「AIは、俳句通には貢献するけれども、作るほうには全く貢献しない」と私は思っております。
この間、私は、パソコンで、ChatGPTでしたか、ちょっと間違って、中坪達哉というところをクリックしますと、出てくるのです。中坪達哉さんは俳人ですと。経歴が簡単に出ます。そして、こんな句を作っていますと。
その句は、でたらめもでたらめ。俳句になっていないのです。季語もなければ、五七五にもなっていないし、めっちゃくちゃなのです。迷惑この上ないのです。ただ、あまりにも、こんな作品を作っていますという作品が杜撰なものだから、誰が見ても間違っていると分かります。ところが、もうちょっと中途半端に句になっていたら、誤解されます。私は何もお願いしていないのですが、こういう時代なのです。非常に被害を受けている人が多いというのは分かります。私のように、利害関係のないところでさえも、こうですから。
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では、このような時代において、私たちはどうしたらよいのか、「俳人としての心のあり方」ということで話をしていきます。一言で言えば、いかにして句心を育てるか、高めていくことができるかということです。
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まず、俳人たるもの、一番の原点は松尾芭蕉です。松尾芭蕉は、いろいろ書いておりますが、私の中では松尾芭蕉と言えば『笈の小文』です。『笈の小文』の中で、こういうことを言っています。『風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る處(ところ)花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出(いで)、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり』と。
知っているという方もあるでしょう。『風雅におけるもの、造化』。『造化』とは、天地万物を造り、支配する神です。『造化にしたがひて四時』。『四時』とは春夏秋冬です。『四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし』。『夷狄』とは、野蛮な民族という意味です。自分の目の前に見える像を結ぶものが、花でない場合は、野蛮な民族と同じですよと、すごいことを言っています。
で、『心花にあらざる時は鳥獣に類ス』。ここの『花』ですが『月』の間違いではないかと私は思います。前で<見るところ 花に>と言って、次に<おもふところ 月に>と言っていますから、ここも『花』と『月』。<かたち 花に>、<こころ 月に>だと思うのです。恐らく、お弟子さんが清書間違いをしたのではないかなと思うのです。そうは思っても、本人のは残っていませんから、資料は全て『花』、『花』になっています。『心花にあらざる時は鳥獣』。鳥、けだものに類しますよと。すごい言葉です。
『夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれ』。夷狄(野蛮な民族)を出て、鳥獣を離れて、造化(天地万物をつくり支配する神)にしたがって、造化と一体化しなさいと言っています。
さて、私たちの前田普羅は、どういうことを言っているか。同じことを言っています。『加比丹』という中で、『目指すは大自然の旋律の上にある』と普羅は言っています。何となく、芭蕉と同じような気がします。「目指すは大自然のメロディー、大自然の旋律の上にある」と。そして、普羅は、『只、静かに静かに、心ゆくまゝに、降りかゝる大自然の力に身を打ちつけて得た句があると云ふのみ』ということを言っているのです。
それから、普羅には『芸術の道は更に新しい宇宙を創造せんとするワザである』という独自の理念があります。これは、私は、『わが俳句は、俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず』に、繋がっているのではないかと思います。『こは俳句をいやしみたる意味にあらで、俳句を尊貴なる手段となしたるに過ぎず』。ここが普羅の理念の新しいところであります。
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さて、「では中坪達哉さん。あなたはどうなのですか」と、私の「俳人としての心のあり方」を考えます。私は長年俳句をしておりまして思いますが、普羅先生の言葉は、読めば読むほど宗教的ですし、哲学的です。難しい。ですから、これを翻訳するわけではありませんが、私流に言えば、「俳人として、自らの美意識、自らの価値観というものを信じること」と考えています。皆さん、自分というものを信じないで、こんな句作ったら点数入るかなと句を作るならば、それは自分の美意識でも価値観でもないですよね。こんな句作ったら入るかなというのは、自分の美意識、価値観というものを放棄している感じです。
そういうのは、身近な句会では点数が入るかもしれませんが、長い目で見れば淘汰されます。類句、類想の大きな穴で淘汰されます。やはり自分の美意識、自分の価値観というものを、追求していく、深めていくということではないかと思います。
そしてそれは、人としての優しさというものを伴うものであってほしいと思います。私自身も反省しております。何と自分は冷たいのだろうと。人としての優しさというのが欠けているのではないかと、後悔の連続であります。俳句を作りながら、人生のための芸術と言っておきながら、しまったという後悔の連続になっています。
美意識なり、価値観というものを追い求めていく中にあって、人としての優しさというものを忘れないでいたい。忘れてしまうのですね、それを。自分自身では反省しています。その思いを、私なりに集約しましたのは『俳句によって心癒される』という言葉です。皆さん、癒されていますか。まず、俳句によって心癒されていなかったら、ちょっと違うと思います。問い掛けてください。俳句によって心癒されているかどうか。
人生の、やがて死んでいく我々、人生長くないのです。芸術は長いかもしれませんが、人生は長くない。その貴重な人生の、貴重な時間を、俳句文芸に投入、選んで投入しているわけですから、それが人生のための芸術でないと言うならば、幸せなことではないと思います。俳句によって心癒されているかどうか。ここは大事なところだと思います。癒されておれば、いつしか生きる力を得ます。『俳句によって心癒され、いつしか生きる力を得る』。
そういう句作りをしていたら、結果的に賞に入ります。私が請け負います。目先のことよりも、そういったほうが結果的に賞に入ります。断言できます。人様の句を見て「ああ、あの人の今日はいい句だったなあ」と思えるかどうか。いや「私のほうが、今日良かったな」って、これでは癒されていませんね。
調子がいい、悪いなんてありません。皆さん、今日からは、調子がいい、悪い、言いっこなしです。俳句に、調子のいいも悪いもないのです。調子が悪かろうが、良かろうが俳句なのです。風邪を引いて熱があるときも自分ではないですか。晴れの舞台だけが自分ではないのです。全てひっくるめて俳句なのです。全てひっくるめて自分なのです。俳句が身に添うことが大事です。
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自分の美意識、価値観というものを信じていく、どんどん深めていく、追求していく、そういう俳句作りを邁進していただければ、人生のための芸術になるのではないかと思います。私自身、常に、自分自身に投げ掛けています。なかなか達成できないかもしれませんが、達成できないのが人間ですから、それはそれでいいのです。ただ、そういう気持ちを持って俳句をすれば、俳句も楽しく、幸せになるのではないかと思います。皆さん、ご清聴ありがとうございました。