< 普羅23 前田普羅の心と「空蝉」>
今回は、普羅の「空蝉」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p56) 空蝉のふんばつて居て壊れけり
空蝉を凝視しやまない普羅の目がある。その背の割れも生々しく、痛々しくも誕生したいのちがまだ宿っているような空蝉である。その姿を、何かを掴んでいるとか、しがみついているとはせずに、「ふんばつて居て」と詠んでいる。即物具象に始まって、それを超えた精神性の発露があろうか。ふんばって居るのは空蝉であって空蝉ではない。ふんばりは普羅自身のふんばりのようにも思えてくる。それが終には「壊れけり」とまで行く、否、行かずには居れないところが普羅らしい、とも言えよう。
強靭な詩魂とはいうが、それは精神の絶えざる緊張と軋轢を克服してこそ獲得されるものであろう。この句は『新訂普羅句集』所収の昭和6年の作だが、40代半ばの職を辞して『辛夷』の主宰となって3年目という時期である。「ふんばつて居て壊れけり」は、普羅の心境を探る手がかりともなりそうである。同じく空蝉を詠んだ昭和19年の戦時統制下で『辛夷』の発行も叶わなかったときの作、「空蝉は静かに秋に入りにけり」と読み比べてみても、普羅の置かれている状況と心境の違いは明らかである。
< 普羅22 前田普羅の自然詠④>
今回は、能登半島の「地貌」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p77) 暁の蝉がきこゆる岬かな
昭和9年刊『新訂普羅句集』には同7年作として「暁の蝉が聞ゆる岬かな」の形で載っている。それが同25年刊『能登蒼し』で再録されて掲句のとおり「きこゆる」となっている。『能登蒼し』への再採は、越中の氷見海岸での作とはいうものの、そこはもう能登半島の付け根ともいうべき地であるからである。「岬かな」の岬とは、今では能登立山シーサイドラインとして観光バスが絶えない、その海岸線の最も富山湾に突き出ている断崖の岬である。その岬にある宇波村からは沖合いの鰤の定置網の形もはっきりと眺めることができる。が、何よりも富山湾の大きな湾曲によって生じる、海に浮かぶ立山連峰の神々しい姿である。そうした暁の大パノラマに天から降ってくるような蝉の鳴き声である。
ところで手元にある軸では「蝉が」が「蝉の」とある。もう一つ軸があって、これには「啼きゐる岬かな」とある。年月の記載がない染筆のことではあるが、明らかに「啼きゐる」を推敲しての「きこゆる」であろう。染筆しながらも推敲し続けている普羅の句作を垣間見たようで、普羅をより身近に感じるような嬉しい気分にもなる。
< 普羅21 前田普羅の自然詠③ >
今回は、奥能登の「地貌」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p98) 奥能登や浦々かけて梅雨の瀧
平成15年7月の能登空港の開港で奥能登も近くなった。羽田空港から1時間5分、それより車で25分で輪島へ、半島最先端の珠洲まで45分で着く。普羅の時代は富山からでも片道1泊を要する奥能登の地であった。
「奥能登や」の詠嘆は、憧れの地の奥能登に来た喜びと目の当たりにする風光に感動してのことだろう。「浦々かけて」とは、普羅が晩年の弟子の福永鳴風に語ったところによれば、輪島から珠洲の狼煙岬にかけては細い道の海岸線であったと言う。「梅雨の瀧」は、梅雨時の滝の意味ではなく、海岸線を走る普段は滝などない丘陵に梅雨の集中豪雨がもたらした俄作りの滝である。能登の地貌の一端を見据えた一句といえよう。
<普羅20 前田普羅の自然詠② >
今回は、飛騨を愛し旅を重ねた普羅らしい梅雨の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p70) 白樺を横たふる火に梅雨の風
所収する『飛驒紬』に前書きはないが、この一句は、今は飛騨市となっている旧神岡町市街地から二十五山の山向こうにある笈破(おいわれ)という村での作である。残念ながら今では廃村となっている。手元にある昭和9年刊『普羅句集』の扉にも普羅がこの句をインク書きしており「笈破にて」との前書きがある。普羅としても思い入れがあった句なのであろう。
句については普羅自身が次のように書き残している。「笈破は高原川の渓谷右岸1300尺許りの高台地に残る飛驒高原の一部である。年中霧の深い所で6月の末ごろ通った時も、農家の大炉に白樺の大木が顔を突き込んで、胴体を家中に横たへ、梅雨風は火を煽って白樺の頭はブシブシと燃えて居た。主人が新しい筵を炉辺に敷いて呉れたので横になり、つい、うとうとと夢心地になると、急に水を浴びた様な寒さを感じた。起き上がると直ぐ目についたのは戸口をふさいで走って居る山霧と、其の中に動いて居る濃紫のアヤメの花だった」。今となっては、普羅の一句が、そして言葉の一語一語が、かつて村が村として存在した時代の貴重な民俗学的な遺産のようにも思えてくるのである。
<普羅19 前田普羅の自然詠①>
今回は、普羅の絶唱の句と、自然との交感を静かに楽しんでいる句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p62) 駒ヶ岳凍てて巌を落しけり
一読、格調ある響きと大きな余韻に包まれる。「甲斐の山々」と題する5句中の一句で昭和12年1月17日の東京日日新聞に発表されたもの。他の4句は、「茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る」「霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳」「茅ヶ岳霜どけ径を糸のごと」「奥白根かの世の雪をかがやかす」。甲斐駒の偉容、とりわけ厳寒期の酷烈な岩壁の相に真に迫った詠みぶりは、現代の映像技術の粋を集めた大画面をも凌駕しよう。凍ても極まって巌さえも弾き落さないではおかない、そんな甲斐駒はもはや人の手の及ぶべくもない遠い世のものでもある。写生や比喩という言葉では容易に説くことのできない世界がそこにはある。
「一句の成るや、成れる其の日に成れるにあらず」という普羅は、愛するものには長い歳月をかけて思慕を募らせる。甲斐の地を初めて訪うてから20年経っている。横浜時代には人生の苦悶を抱いて仰いだ甲斐の山々であったが、昭和12年といえば、富山を根拠地に俳人としても雄飛している時代だ。心身ともに充実して甲斐駒と対峙した普羅の真骨頂を見る思いである。山岳俳人と称される所以の句である。『定本普羅句集』所収。
(抜粋 p49) 秋霧のしづく落して晴れにけり
富山に移住して2年を経た大正末年に、散居村光景を望むこともできる南砺市の古刹安居寺にて作った句である。1300年前の創建という同寺には秘仏の木造聖観音立像を始め見所も多い。参拝に訪れる者を吸い込むかのような自然豊かな山懐の佇まいに、普羅の句ごころも昂揚したことと思われる。
一句は「秋霧の」との端正な言葉から流れ出す。秋霧として語調を整える詠み方は古来よりあるが、普羅も寺域を歩むほどに霧にとらわれて行く、そんな自らのこころを表現するには単に霧だけでは済まされない厳粛なものを感じたのであろう。立ち籠めた霧は流れ去るというよりも、あたかも普羅を濡らさんとばかりに雫を落とし、次第に晴れ上がっていくのである。こうした自然の息吹との交感に喜ぶ姿がそこにはある。
富山に移住して、普羅は「只、静かに静かに、心ゆくままに、降りかかる大自然の力に身を打ちつけて得た句があると云うのみである」と書いているが、それは何も山岳俳句だけに限ったことではなかろう。『普羅句集』所収。
普羅ならではの、ダイナミックで厳しい自然の世界と、繊細で清澄な自然の世界。どちらも普羅の求め続けた俳句の精神世界、芸術の精神世界であることがわかります。次回も、普羅の自然詠を紹介します。
<普羅18 前田普羅の「地貌」の句⑥>
今回は、土地の人々の営みから生まれた「地貌」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p82) 畑打が残せば花菜散るばかり
昭和24年の春、大和関屋の門人奥田あつ女家に逗留していた普羅が豊かな大和平野を逍遥しての作である。『定本普羅句集』に続く次の句「一本の大根種とて花栄華」もその足取りの延長上のものであろう。奥田あつ女の案内による大和路の春の情緒を満喫しての楽しい吟行であったに違いない。
掲句での「散るばかり」がいかにも普羅らしい把握である。「散りにけり」でも「散りをりぬ」でもなく「散るばかり」なのである。菜種の花の時期も終わって当然に畑も打ち返される。天地返しで黒く光りやまない畑土には自然の息吹を感じて見飽きないものである。たまたま隅の方に、遅ればせながら花を掲げている菜種があって残されているのである。そうしたことは間々あることかもしれないが、そこが大和の国原であればなお一層にゆかしくも思われてくるのである。麗かな陽光の中で、その花菜が散っているのも美しい光景に違いない。それを美しいと留めることなく、否、留めることができなくて「散るばかり」と措定するところに、普羅の晩年へと向かう孤愁を思うのである。
(抜粋 p54) 代馬の静かに歩む飛沫かな
「代馬」は「代掻き」をする馬で「田掻き馬」とも。トラクターなど機械力のない時代は「代掻き」も重労働であった。田植え前に、田の底の土塊を砕き掻き回して田面を水平に均して行く。田面が凹凸であれば、早苗に浮き沈みができて生育がままならない。田の水持ちもよくなるなど重要な仕事である。この句が成った大正から昭和の頃は、人力や馬や牛の力に頼る作業であった。荒起こしをして水を入れた田に、1メートル幅ほどの鉄製櫛形の馬鍬を曳いた馬や牛が進んで行く、そんな光景があちこちで見られたに違いない。直ぐに植代となるわけではなく、1枚の田を幾日も代馬が行き来した。
省略されてはいるが、飛沫を上げて静かに歩む代馬の周りには、鴎や鴉や鳶が騒がしく飛び回っている。馬が1歩進むたびに掻かれた土から蚯蚓などの虫が踊り出るのだ。鳥に餌を与える王者のごとき貫禄で代馬が歩む、と眺め飽かない普羅であった。端唄をよくするなど江戸情緒の粋人、普羅が時を忘れて見入っているのである。後に「地貌」論を展開する普羅の次第に風土に溶け込んで行く姿がそこにはある。『定本普羅句集』所収。
普羅の「地貌」の句を6回にわたり紹介してきましたが、普羅の句を鑑賞する際には、その地勢の趣や、そこに生きる人々と自然とのかかわりを読み取ろうとする姿勢が大切だと思っていただけたのではないでしょうか。次回からは、「地貌」の句も含めて、普羅の自然を詠んだ句を紹介します。
<普羅17 前田普羅の「地貌」の句⑤>
今回は、雪国独特の「春と雪」の組み合わせの「地貌」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p64) 弥陀ヶ原漾ふばかり春の雪
定本普羅句集』では、この句の前に「大空に弥陀ヶ原あり春曇」の句を載せている。弥陀ヶ原とは、三千メートル級の峰々が並ぶ立山連峰の中ほどに広がる大高原である。標高二千メートル前後にして南北2キロ、東西4キロに及ぶものであり、富山市内はもとより富山県内の各地から長々と空に横たわる高原大地を望むことができる。
一句は「弥陀ヶ原漾(ただよ)ふばかり」と「春の雪」との組み合わせであって、「漾ふばかり」はあくまでも弥陀ヶ原である。「大空に弥陀ヶ原あり」といい、そして「弥陀ヶ原漾ふばかり」という距離感覚からすれば、富山市内にあった普羅の自宅の庭先からか、あるいは市内を歩きながらの眺望のように思われる。
「春の雪」をどう読むか。春雪の降る中での光景とも取れるが、雪は必ずしも降ってはおらず、「春の雪」とは弥陀ヶ原を覆い尽くした雪の光景である。薄々としながらも時折強い日差しの中に、弥陀ヶ原は「春の雪」を被いた美しき浄土として大空に広がっているのである。天空を立体的に取り込んだ一句からは、富山での暮しの安定も思われる。
(抜粋 p68) 青々と春星かかり雪崩れけり
透徹した「青々と」した美しさ、轟きも極まるかのような「雪崩れけり」の切れ。一読、人界を遠く離れた岳嶺を思い浮かべるが、一句の舞台は人が往き来する山道である。そこは、風の盆で知られる越中八尾の町から4キロほども山に入った、神通川支流の室牧川上流の谷底にある下の茗(したのみょう)温泉へと至る雪道。下の茗温泉は、富山藩十代藩主前田利保も湯治で訪れた記録も残る名湯である。一軒宿の秘湯であったが、平成11年に閉鎖している。この句の昭和11年当時は、普羅の高弟で八尾町長にもなった橋爪巨籟が守っていた。
句については普羅自身が次のように書いている。「空気には水分も塵埃もなく、地上は厚い雪だ。提灯を消すと空はますます冴え、雪と星との薄あかりの世界、対岸の山の尾根に近い青い大きな星は呼吸して居る様に瞬き出した。気がゆるんだ様に対岸の絶壁を細い雪崩がドウ、ドウと落ちそめる」と。地貌を見据えて、そこに暮す人々のこころにも触れようとした普羅には、見飽きることのない、現でありながら夢のような世界であったろう。普羅の歓喜に応えて瞬きやまぬ「青い大きな星」である。『飛騨紬』所収。
山々と春の雪、さらには春星との組み合わせは、雪国独特の美しい風景であり、普羅を魅了してやみません。冬の厳しい美しさを詠む普羅とはまた違って、春の到来の喜びを胸に、雪国の大自然を楽しんでいる普羅を思います。
次回も引き続き普羅の「地貌」の句を紹介したいと思います。
<普羅16 前田普羅の「地貌」の句④>
今回も引き続き、「地貌」論の視点から鑑賞すると、より深い味わいを感じることのできる普羅の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p67) 春昼や古人のごとく雲を見る
『春寒浅間山』の「白根の巻」所収の一句であるが、先ず古人をどう解釈するか、が問題となろう。古人といえば、例えば『奥の細道』の一節である「日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」の古人を思うのだが、この句ではどうだろうか。「白根の巻」を見ると、掲句の前には「奥山の枯葉しづまる春夕」「独活掘りの下り来て時刻をたづねけり」があり、後には「この池は菱とりの池菱若葉」「蛙なく入山村の捨て温泉かな」が続く。こう見ると、「古人」は必ずしも「風騒の人」ともいえないようである。
『春寒浅間山』は普羅がその作句姿勢として唱える「地貌」を大々的に世に問うた句集である。一つ一つの地塊が異なるように地貌の性格も又異ならざるを得ず、それらの間に抱かれた人生の地貌の母の性格による独自のものを捉えるべし、との普羅の意を体するならば、「古人のごとく雲を見る」と詠む普羅の眼差しは、いわゆる風騒の人々へ向けられたものではなく、この地に生き死にしてきた名もなき人々へのものとも思えて来る。春昼の語りかけてくるような雲を楽しそうに仰ぎ見ている、そんな普羅ではなかったか。
(抜粋 p60) 山吹を埋めし雪と人知らず
大雪のためにすっぽりと雪に覆われた庭である。「山吹を埋めし雪」そして「人知らず」とあるから、その雪を踏んでの行き来もあったろう。そんな雪の庭を朝暮に眺め飽かないのである。雪に押し固められながらも芽を出す山吹のたくましさを信じて疑わない普羅、脳裏には花の鮮黄色も映じていようか。が、大事なことは、雪を決して山吹に仇なすものとは見ていないことだ。山吹を愛しながらも、雪は雪として愛すべき対象として朝暮に会話するかのように眺めている普羅なのである。地貌を愛する所以であろう。
「地貌」を意識して「白根の巻」を読むと、春昼の句の中にも、「独活を掘る人」や「菱をとる人」のような「この地に生き死にしてきた」人々の姿や生活が浮かんできます。また、「普羅3(2021年1月)」でも普羅を「雪の詩人」と紹介しましたが、山吹の句には、雪国の生活に溶け込んだ普羅の姿があります。
次回も引き続き普羅の「地貌」の句を紹介したいと思います。
<普羅15 前田普羅の「地貌」の句③>
今回は、「地貌」論の視点から鑑賞すると、より深い味わいを感じることのできる普羅の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋 p55) 雪山に雪の降り居る夕かな
越中八尾の山中で成った一句で昭和6年4月発表のもの。(中略)
雪山にいつ果てるともなく降る雪、その皚々たる雪山もいつしか夕べとなって来た。静謐で哀しく荘厳なる夕べの彩りが普羅の眼には映っているようである。小さな人間の生死を超えた浄らかな世界が見えてくる。風土に根ざした山恋いと雪恋いが結晶した普羅代表作の一つといえよう。「自分も雪国に来り住んで、雪国の懐に抱かるる事すでに9年、雪国の姿も心も、自分の胸にしかと描き尽されて居るやうに思ふ」とは作句の翌年の言葉だが、まさにその心境を表した一句といえようか。『新訂普羅句集』所収。
(抜粋 p73) 色変へて夕となりぬ冬の山 (『飛騨紬』所収)
越中から飛騨の国にかけて山々は数多いが、掲句の「冬の山」は立山の嶺々のようにも思われて面白い。「色変へて夕となりぬ」と冬山を仰ぐ光景を想うならば、「立山のかぶさる町や水を打つ」と詠んだ立山の嶺々が相応しく、一句がより壮大なものとなるからである。「冬の山」は深々と真綿のふくよかさをもって、この世を浄めんとする威厳と慈愛に満ちた表情で蒼天に立っている。それが夕茜に染まった姿は西方浄土をも想う荘厳なるものである。そして、夕日が急ぎ足で沈み始めるにつれて、雪の山肌も次第に白みがかり、やがて灰色へと化していく。夕照に続く灰色の薄暗い世界に、独り、取り残されたかのように嶺々を凝視しやまぬ普羅の後姿が浮かんで来る。
二句とも明確に具体的な景をもつ句ではありませんが、「地貌」の句として見ると、情景がありありと浮かんできます。「雪山に」の句は、富山でも雪深いと言われる越中八尾の山中での句であり、雪の情景や、訪れた普羅の姿、八尾の人々の生活の営みなどの様々な景を想像することができます。「色変へて」の句を立山の夕茜とすれば、富山のだれもが魅了されている美しい情景が目に浮かびます。さらに、この「地貌」の句として見えてきた景は、富山にとどまらず雪国の普遍的な景にまで昇華していると言えるかもしれません。
次回も引き続き普羅の「地貌」の句を紹介したいと思います。
<普羅14 前田普羅の「地貌」の句② >
今回は、冬の富山の風土から生まれた普羅自身の「地貌」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋 p46) うしろより初雪ふれり夜の町
富山へ移住した普羅は、昭和4年の1月より『辛夷』の発行を自らの責任において担うこととなる。北陸における『ホトトギス』の衛星誌として大正13年1月に創刊された『辛夷』は名実とともに普羅の主宰誌となった。その3ヶ月後には、富山永住を決意して報知新聞(当時は一般紙)富山支局長の職を辞し、俳句一筋の生活に入った。こうした人生の大きな転機となった普羅44歳の冬に、富山市内で詠まれたのがこの一句である。
「人を待つ」との前書きがあるが、往時の富山市内は現在では想像もつかない光景だ。市街地の真ん中には神通川の直線化工事による廃川地すなわち旧河道が走っていた。そんな町の人通りもないような寒い夜に一人佇んで人を待っている。襟や頬を掠める寒気が次第に鋭くなって初雪が舞い出す。実に寂しく冷たい初雪である。「うしろより」からは、闇に沈みながら普羅に迫って来る立山の嶺々を思う。読後感としては、「人を待つ」というよりも、冬を迎えた越中の風土を総身で体感しつつ、これから訪れる己が俳人生そのものを見据えて決意を新たにしているようにも読めるのである。『普羅句集』所収。
(抜粋 p51) 雪卸し能登見ゆるまで上りけり
「能登見ゆるまで」に詩情もあれば、普羅の弾んだ心もうかがえる。寒晴れの湾上に横たわる能登半島の美しさを思う。雪とは縁のなかった普羅が、雪下ろし(雪卸し)で屋根に上っている、そんな光景を思い浮かべるのも楽しいことである。普羅時代の『辛夷』誌には、雪積む屋根に上っている普羅の写真もあった。
この句を収める『普羅句集』の上梓は昭和5年だが、今日のような地球温暖化もなく、また除排雪の機械力もなかった時代である。「どか雪」はいうに及ばず数日も降り続けば、道という道は、降る雪と、屋根から下ろした雪とで埋まってしまったであろう。屋根雪の重さは侮れない。やわらかい雪も積もるにつれて次第に締まって重くなる。家のあちこちで戸の開け閉めにも不自由し出し、放っておけば家の倒壊ということもありえた。
冒頭に置く「雪卸し」の表現は普羅としては安易なようにも思えるが、それも、富山に移住して「雪卸し」も行うなど風土に溶け込んでいる、という喜びと自負心の表れのようでもある。雪卸しを詠んで、こんなに弾んだ句を他には知らない。
「普羅3」で紹介しましたように「雪の詩人」と言われるほど雪の絶唱の句が多い普羅ですが、雪国の生活の中の句にも普羅の生きる姿が見えてきて、味わい深いものがあります。次回も引き続き普羅の「地貌」の句を紹介したいと思います。
<普羅13 前田普羅の「地貌」の句① >
今回からしばらく、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』より、普羅の「地貌」の句を紹介します。まずは、富山県人の心のよりどころ、立山連峰の句を見てみましょう。
(抜粋 p42) 立山のかぶさる町や水を打つ
大正13年の富山市内中心部から立山連峰を仰いでの一句。普羅はこの年の5月に、当時は一般紙であった報知新聞の富山支局長として横浜から富山へ移住している。赴任の下相談には5分もかからずに快諾した、というほどに山岳好きな普羅であった。赴任してからは日々仰いだ立山の嶺々であった。「立山のかぶさる町」が富山の町の特徴を見事に言い当てていよう。眼前の光景を瞬時に描きとった、その大胆な把握力には驚くばかりである。後年、「地貌」論を唱える普羅だが、早い段階から句作では実践しているといえる。
「立山のかぶさる町や」までは直ぐに出来たが、下五の結びには苦労している。その作句過程は詳らかにされている。下五を十数日は考えて「の日除かな」とするが、安定がないとして、また歩いてみて「水を打つ」と直す。が、不安が残り二三ヶ月はそのままにして置いたという。「水を打つ」という人間の小さな営みと、かぶさりやまぬ山岳の雄々しさとの対比、それが対立ではなくて統合した富山の風土を詠むことで、古来より立山を神の山として仰いできた越中人の魂に触れているように思う。『普羅句集』所収。
(抜粋 p50) 立山に初雪降れり稲を刈る
「初雪」と「稲を刈る」との季重なりとなっているが、概して普羅の作品には季重なりが多い。自らの立つところの歴史や地質、気象などを究めて風土に根ざした作句をなさんとした普羅には、現実の事象が本然として季重なりであるのならば無理に季語を一つにすることもない、という思いがあったに違いない。
富山平野から仰ぎ見る立山連峰、その三千メートル級の峰々を染めて初雪が降ったのである。その白々とした連山を背景にして、否、背負うような格好で人々が稲刈り作業に精を出しているのだ。「初雪降れり」「稲を刈る」と大きく二度にわたって切れながらも、調べは淀むことなく一句を全うして、大自然とそこに織り成す人々の営みを躍動的に描いている。何ら主観めいた措辞はないが、「初雪降れり」が醸し出す緊張感は稲刈り作業を急かせるのみならず、迫りたる冬将軍にも備える人々の秘めた覚悟をも思わせる。
普羅は後年、地貌論、すなわちその土地独自の風土や歴史が表れた作句を標榜するが、その実践を早々と見るような一句である。大正14年作、『普羅句集』所収。
普羅の「地貌」の句は、山や川、海にも空にもわたって詠まれています。引き続き、それらを主宰中坪の解説で紹介したいと思います。
<普羅12 前田普羅の「「地貌」論>
普羅の俳句の特色の一つに「地貌」論が挙げられます。主宰中坪達哉は、著書『前田普羅その求道の詩魂』で、【 普羅は、それぞれの地域の自然の特色とそこに織りなす人々の暮らしを「地貌」という観点から捉えた。「地貌」とは、もともと地表面の高低・起伏・斜面などの状態をいう言葉だが、普羅は自らの俳句の理念を示す術語として止揚した。】(p15)と述べています。また、この「地貌」論の視点から普羅の俳句を鑑賞すると、句の世界をより深く味わうことができます。今回は、主宰中坪達哉の解説で、普羅の「地貌」論を紹介します。
(抜粋 p93)普羅の「地貌」論< 紹介① >
「地貌」とは元々、地理用語だが、普羅は句作における「地貌」論を唱えた。すなわち、各地の地塊が異なり各独自の理想を有する地形が出来上がるように、そこでの人生にも地貌の母の性格によって独自のものを有することとなる。だから、その土地でなければ詠めない句を詠むべきである、と説くのである。
(抜粋p97)普羅の「地貌」論< 紹介② >
国別三部作は、普羅のいわゆる地貌論、すなわち地形や気候が異なれば植物も異なるように歴史、風土も異なり、そこでの人生も自ずと異なるから、それに適った句を作らねばならない、との考えにもとづくものである。
いかがですか? 上記2つの解説によって「地貌」論のおおよそを掴んでいただけましたら、主宰中坪の解説で、「地貌」の句を見てみましょう。
(抜粋p17) 人住めば人の踏みくる尾根の雪 『飛騨紬』
この句には、厳しい風土に暮らす山人に向けられた普羅の熱い眼差しがある。厳冬期の山人が人里に下りてくるためには、雪の尾根を命懸けで渡って来なければならない。秋まで通った渓谷の径は雪崩の恐れがあるからだ。一読、大自然と一点の山人の構図の巧みさにうならされる。が、やがてしみじみと奥山に住む人々の哀しみが伝わってくる。「地貌の母の性格」によって独自の人生とならざるを得ないことを具体化した一句である。
また、主宰中坪は「普羅の地貌論が世に明らかになるのは昭和21年刊の『春寒浅間山』であるが、この『普羅句集』にも、その精神がうかがえる」(p91)、「早い段階から句作では実践しているといえる」(p42)、「普羅の作品全般に共通するものと考えた方がよいのではないか」(p16)等、述べています。
次回からは、普羅が「地貌」そのものに魅せられた句、風土とそこに生きる人々を見つめた句などを紹介したいと思います。
(抜粋)『春寒浅間山』序より
自然を愛すると謂ふ以前にまづ地貌を愛する……此の山は、此の渓谷は、此の高原は、……それらの地貌は、地球自らの収縮と爆発と、計るべからざる永い時てふ力もて削られ、砕かれ、又沈殿集積されたる姿である。……其処に各独自の理想を有する地形が出来上って居た、一つ一つの地塊が異なる如く、地貌の性格も又異ならざるを得なかった。空の色も野山の花も色をたがへざるを得ない。謂はんやそれらの間に抱かれたる人生には、地貌の母の性格による、独自のものを有せざるを得ないのである。
<普羅11 前田普羅の富山への思い>
これからは、富山移住後の普羅とその俳句を、紹介したいと思います。今回は、普羅の富山への思いを見てみましょう。
まず、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』から紹介します。
(抜粋 p132)
普羅が報知新聞(当時は一般紙)富山支局長として富山市に赴任したのは、大正13年の5月であった。富山への赴任内示を承諾するのに5分と要しなかった、という。
普羅自身の言葉から、普羅の富山の地に寄せる熱い思いが伝わってくる。
小学校ではじめて日本地理を学んだ時、雪国として頭に打ち込まれたのは東北地方でなく、此の越中の国であった。「雪の底の生活をせめて一冬でもやって見たい」と云ふ心は、已に十五六歳の時に芽ざして居た。一冬の生活は出来なくとも、一度は雪の越中の国を通過して見たいとまで思って居た。其の越中に住むに至って、雪の来る毎に子供の如く喜び、そして壮麗目をうばう許りの雪解の上に踊った。(『渓谷を出づる人の言葉』より)
さて、普羅の赴任を知った「辛夷」の人たちは、いち早くその門を叩き、俳句談や古本談や旅行談に熱中したようです。街に繰り出せば普羅は粋で陽気で、弟子の中島杏子は普羅について「文学道には厳しいお方であったが、人間としては多彩な温かい心の持主であった」と述べています。(『定本普羅句集』p649)そして昭和4年4月、普羅は報知新聞社内の異動を機に社を辞して富山永住を決意します。翌5年の『普羅句集』の序では、以下のように富山を述べています。
(抜粋)
私には若干の愛書と、家族を容れて余りある古き二張の麻蚊帳と、昼夜清水を吐いて呉れる小泉と、ジャマン製の強力なる拡大鏡一つとがある。その上に、周囲には多くのよき友があり、之等を抱いて力強き越中の国の自然がある。(『定本普羅句集』p4)
こうして普羅は富山の地に生きることになります。そして、美しくも厳しい自然と、そこに生きる人々の風土に根ざした暮らしを体感していきながら「地貌」論を展開し、俳句精神を深化させていきます。次回は、その普羅の「地貌」論を紹介したいと思います。
<普羅10 前田普羅の富山移住前⑤ 普羅と『ホトトギス』 >
普羅は、大正元年に俳句雑誌『ホトトギス』に投句して以来俳壇で活躍し、大正3年には『ホトトギス』課題句選者になっています。大正5年に横浜裁判所を辞し、時事新報社ついで報知新聞社に移り、大正13年富山支局長として富山に赴任、昭和4年に富山永住となります。この間の普羅と『ホトトギス』について、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「虚子と普羅」から紹介します。
まず、『ホトトギス』の巻頭(虚子選)を飾った普羅の句を見てみましょう。
(抜粋1)「普羅の巻頭句」より(p117)
『ホトトギス巻頭句集』は、『ホトトギス』で「雑詠」欄が始まった明治41年10月号から平成7年12月号までの巻頭作品がもれなく掲載されている。その間、選者は、虚子の43年、高浜年尾の26年、そして稲畑汀子現主宰の18年と代わっている。合計年数が合わないのは、途中「雑詠」欄のない時期があったためである。
虚子が、ホトトギス大正3年正月号に「大正2年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎。」と書いたことは、よく知られている。普羅は、大正第一期ホトトギス黄金時代に、原石鼎、飯田蛇笏そして村上鬼城らとともに四天王と称された。その丈高い俳句は今日の俳句隆盛時代を導くための確固たる基盤を築いた。
普羅の巻頭を見ると3回、横浜時代の作品である。
1回目は、大正2年3月号で8句
雪晴れて蒼天落つるしづくかな
農具市深雪を踏みてかためけり
雪の峰に人を殺さぬ温泉かな
荒れ雪に乗り去り乗り去る旅人かな
雪明り返へらぬ人に閉しけり
ぬかるみの本町暗し冬至梅
雪垂れて落ちず学校始まれり
炭割れば雪の江のどこに鳴く千鳥
2回目は、大正3年5月号の4句
乾坤の間に接木法師かな
さし木すや八百万神見そなはす
接穂の事尋ね入りたる濛雨かな
干足袋を飛ばせし湖の深さかな
そして、3回目は大正9年9月号の12句
夏草を搏ちては消ゆる嵐かな
夏草を刈り伏せ刈り伏せ人動く
好者の羽織飛ばせし涼みかな
旱雲月夜の空を駈りけり
伊豆高し海月静かに渡りけり
月さすや沈みてありし水中花
酒中花や石に捨てられ乾きけり
鮓なるや暗きを出づる主顔
鮓なるゝ頃不参の返事二三通
押鮓の鯖生きてあり切らんとす
人の如く鶏頭立てり二三本
丈高き花魁草も踊りけり
の24句である。巻頭作品の数が一定していないのも、おもしろい。大正期のその頃は、50句募集であったというから、現在以上の厳選であった。
その後の普羅は、虚子を仰ぎつつも次第に『ホトトギス』を離れて行くのである。
次に、虚子の普羅評について見てみましょう。
(抜粋2)「進むべき俳句の道」より(p121)
大正7年6月に出た『進むべき俳句の道』は、虚子が俳句を志す人々への指針となるよう自らの俳句に対する考えを述べたものである。この中で、虚子は、渡辺水巴、村上鬼城、飯田蛇笏、長谷川零余子、原石鼎ら32人の俳人を取り上げているが、普羅の句については「秋の如く冬の如く、簡素、雄勁、それぞれ異なった姿態を具えていた」と述べている。
しみじみと日を吸ふ柿の静かな
病む人の足袋白々とはきにけり
の2句を代表作として挙げ、次のように解説する。
その調子が洗練されておって、一点の衒気もなく、一点の匠気もない。一寸見ると平々他気ない句のようであって、その中には清新な思想が何の屈托もなく盛られてある。……石鼎君の華やかな句に比較して見るといずれも静かに淋しい。それかと言って決して力の弱い、張りのない句ではない。内部に潜める力は十分にあるけれども、作者の控目なおとなしい性質は容易に表へそれを暴露しないでいるのである。
この時代の普羅は、7年間勤めた役所を心に染まぬとして辞し、進むべき人生の道を見出そうとしていた時期であった。
次回からは、富山移住後の、憧れの大自然とともにある普羅の俳句と、その精神性を、主宰中坪の著書『前田普羅その求道の詩魂』より紹介します。
<普羅9 前田普羅の富山移住前④ 普羅の自然詠 >
今回は、普羅の自然への思いを込めた原点ともいえる句を見ていきましょう。主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「普羅と語る」から紹介します。
(抜粋1 p41) 雪解川名山けづる響かな (大正4年)
少年の頃より志賀重昂の『日本風景論』を読み、また山岳に明るい普羅が固有名詞を出すことなく、あえて「名山」と置いている。その「名山けづる」を受けて「雪解川」も、ただの川であることを許されなくなる。読者も上五の「雪解川」へ呼び戻されて、破壊力ある激流を想うのだ。この上五、中七と続く重量感ある流れを、「響かな」と結んで格調の高さと強い余韻をもたらして巨大な自然エネルギーを実感させるのである。
誇張といえば、これほどの誇張があろうか。批判の向きもあるかもしれないが、それを跳ね飛ばすだけの普羅の情念と一句の力が感じられる。後に「地貌」論を展開するようになる普羅であるが、自然の底知れぬ力と魅力に全身で真向かった、その胸奥から迸り出たものであろう。丈高い山岳詠をなし、また渓谷に入っては己が安心立命を図ろうとする普羅の自然への親愛を思わせる一句である。
(抜粋2 p52) 雪晴れて蒼天落つるしづくかな (大正2年)
「雪晴れて」とは、降り続いた大雪もようやく止んだ久方ぶりの快晴であろう。昨日までの重苦しい空模様とは一転して、目も眩むほどの陽光の中に立っている普羅の毅然とした立ち姿が浮かんで来る。一面の白銀の世界が放つ輝きは、目や頬を痛いまでに刺すばかりの強さであろう。白銀に映えた蒼天は大地を圧するかのように近々として、大屋根や樹々の高みからは雪解けの雫が轟き落ちている。「蒼天落つる」は、そんな光景を瞬時に切り取った普羅独特の気息充実した豪快な表現である。
この句は普羅が『ホトトギス』の虚子選で初巻頭を取った大正2年3月号の中の一句である。他には「農具市深雪を踏みてかためけり」「荒れ雪に乗り去り乗り去る旅人かな」「雪明り返らぬ人に閉しけり」「雪垂れて落ちず学校始まれり」などの句がある。初巻頭が雪を主題にしたものであることに注目する。富山に移住することとなる、その11年も前にこうした作品を発表していることも興味深い。何か、その後の普羅の俳人生を暗示しているかのようでもある。
普羅の自然への憧れと、その眼差しから生まれた格調高い俳句は、すでに富山移住前に生まれていました。その後、富山移住によって普羅の俳句はより深化し、多くの人に愛されている自然詠、山岳詠が数多く生まれています。今後、それらを紹介できることがとても楽しみです。次回は、『ホトトギス』における普羅を紹介し、富山移住前のまとめとしたいと思います。
<普羅8 前田普羅の富山移住前③ 普羅の粋 >
前々回・前回と普羅の「狂はしき姿」の句を紹介しましたが、今回は、普羅の一面でもある粋な句2句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「普羅と語る」から紹介します。
(抜粋1 p40) 面体をつつめど二月役者かな (大正2年)
句またがりながら「面体をつつめど」と力強く流れる調べも心地よい。いかにも、見つけたぞ、という芝居好きな江戸っ子の眼差しを思う。常套的には「面体をつつんで」とか「つつみて」となろうが、「つつめど」とした「ど」の強い響きにも、たちどころに周りの者にも伝わったざわめきも思われる。「二月役者かな」は切らずに一気に読み下す。
団十郎か菊五郎か、宗十郎頭巾で顔を隠しての忍び歩き、しかも正月も去ってどこか淋しく料峭の風は人をそそくさと往き来させている。が、身に付いた所作は絵になり発する気品や艶っぽさは覆うべくもないのだ。「二月役者」は「にげつやくしゃ」と読みたい。料峭の季節に叶う役者の身のこなしを粋と捉えたのも、江戸情緒も残る明治の東京に育って端唄の一種の歌沢を唄い、早稲田大学に学んだ頃には坪内逍遥に師事して劇作家を目指し、自身でも舞台に立とうとしたほどに芝居好きであった普羅らしいと思えるのである。この句を発表した大正2年は横浜に在るが、一句の舞台は隅田川の川風が頬を伝うような東京の街角のようである。普羅、二十代後半にしてこの艶っぽさである。
(抜粋2 p48) 新涼や豆腐驚く唐辛子 (大正元年)
一読、ユーモラスな一句である。普羅のイメージとは合わないような気もするが、大正元年の普羅初期の作品である。大きくクローズアップされた純白の豆腐と赤い唐辛子との絡み合いには、どこかアニメ童話の一シーンを見るような面白さもある。素材の旨みを巧みに引き出す唐辛子であるから、豆腐としても唐辛子の手の内はとうに承知のはずである。が、今回の唐辛子の味は昨日までとは明らかに違う、とおどけにも似た仰々しさで驚きを見せている。豆腐に活き活きとしたいのちが吹き込まれている所以であろう。
こうした句が生まれるのも、季節の移ろいに敏感であるからに他ならない。新涼の季節がやって来て、その先頭というものがあるならば、それに誰よりも早く触れたかのような驚きを、唐辛子を配した豆腐に仮託しているのである。そうした表現方法を選んだ普羅の諧謔ぶりを多としたい。また、「新涼や」という鋭い切り出し方や結びの名詞止めなど緊密な調べの心地よさは、一句に高い格調をもたらしてもいよう。現在なおユニークな一句だが、発表された大正初期の俳壇にさぞ新風を吹き込んだことと思う。
さて今回は、普羅の粋で楽しい句を紹介しました。普羅の弟子であった中島杏子が、普羅について「少しキツイが人を引き付けるまなざし」(定本普羅句集p644)、「文学道には厳しいお方であったが、人間としては多彩な温い心の持ち主」(同p649)と回想していますが、杏子は茶目っ気のある粋な普羅の魅力を感じ取っていたのでしょう。次回は、多くの方が大好きな普羅の自然詠を紹介します。
<普羅7 前田普羅の富山移住前② 主観尊重俳句に共鳴 >
前回は、普羅の「世路の術にも、心の鍛錬にも幼かった私の狂はしき姿を見る」句として代表的な「人殺す我かも知らず飛ぶ蛍(大正2年)」を紹介しましたが、今回も引き続き代表句2句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「普羅と語る」から紹介します。
(抜粋1 p43) 花を見し面を闇に打たせけり (大正4年)
やはり、顔ではなくて面(おもて)であらねばならない。普羅の書き残したものを読むと、作句時の普羅の面には、もう二つの面が重なっているように思えて来る。すなわち、幼い普羅が母に連れられて行った夜桜帰りの折りの、母と幼い自分自身の二つの面である。その夜のことを普羅は「御花見に行って埃だらけになるより、かうして静かな庭を見て居る方がいいね。自分にふり返りもせず、母は独言の様に云った。あかるい花と、群衆と、喚声とで茫とした母の心は、刻々にさめて行く様だ。自分の子供心からも、御花見のときめきが闇に吸収されて行くのが判った」と書いている。
母は普羅が15歳の頃に亡くなるが、その後の継母とは折合いが悪かった。この句を詠んだのは30歳のときだが、幼少期のその夜の花見の闇が冷気をともなって普羅に纏って来たかのようでもある。母の言った「埃だらけになる」の一語は、普羅の心に圧し掛かって来る唾棄すべき社会の暗部、そして様々な矛盾から来る憤懣に耐え難くなった普羅の有り様にも通じる。格調高くして沈潜した味わいの一句。
(抜粋2 p47) 潮蒼く人流れじと泳ぎけり (大正9年)
冒頭に置かれた「潮蒼く」が何とも印象鮮明であり、鮮やかな潮の色彩が一句を染め抜いている。季語は「泳ぎ」であることは言うまでもないが、「潮蒼く」が青葉のころに太平洋岸を北上する黒潮をいう「青葉潮」をもイメージさせて一句を重厚なものとしていよう。この句は大正9年、普羅の横浜時代の作でありうなずけるのである。
「人流れじと泳ぎけり」からは、汀を遠く離れた遠泳のようにも想える。が、「人流れじ」と見えるのは、汀を歩いての目撃とするならばそう遠い距離ではないはずである。潮の流れの速さは必ずしも沖合だけに限らない。穏やかに見える浅瀬でも、沖へと人を攫う潮の流れは潜んでいる。「潮蒼く」は流される人を呑まんとする、牙を隠して煌めく海の象徴かもしれない。躍動感というにはあまりにも危機感が強すぎるが、必死に泳ぐ人と作者とが一体となった緊張感がある。35歳という若い肉体が敏感に反応しているのである。
世路に腐心していた普羅のこころを「流れじと泳ぎけり」に仮託した一句とも取れるのだが、そう決め付ける必要もなかろうが。
いかがでしたか。普羅の強い「主観の打ち出し」の句を味わう時、読者の私たちもそれを受け止めるだけの心の強さが必要な気がします。次回は、このような時代にあっても、心が穏やかになる普羅の句を紹介しましょう。
<普羅6 前田普羅の富山移住前① >
前田普羅は、富山への移住により「次第に人生観、自然観に大なる変化を起し(『新訂普羅句集』)」と述べていますが、それでは、富山移住前の句はどのようなものだったのでしょうか。主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「普羅と越中」(p11)から紹介します。
(抜粋)
富山移住前の句については、普羅自身「世路の術にも、心の鍛錬にも幼かった私の狂はしき姿を見る」(昭和5年刊『普羅句集』)と、述懐している。
喜びの面洗ふや寒の水(大正2年)
人殺す我かも知らず飛ぶ蛍 (2年)
花を見し面を闇に打たせけり(4年)
夜長人耶蘇をけなして帰りけり(5年)
潮蒼く人流れじと泳ぎけり(9年)
寒雀身を細うして闘へり(10年)
これらの句には、普羅の主観が強く打ち出されている。「心の鍛錬にも幼かった」ゆえの、その反動としての主観の強い打ち出しではないか、と思われる。
富山移住前すなわち横浜時代の普羅は、高浜虚子に見いだされその影響下にあった時代と言える。「大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎」と虚子をして言わしめた普羅は、虚子がその時代に唱導していた主観尊重俳句に共鳴し、その立役者となっていた。
それでは次に、その普羅の「狂はしき姿」の最もよくわかる句「人殺す我かも知らず飛ぶ蛍」を、主宰中坪の上記著書(p39)で見てみましょう。
(抜粋) 人殺す我かも知らず飛ぶ蛍
とにかく「人殺す我かも」は尋常ではない。「飛ぶ蛍」の危うげな浮遊は、不安定で危険な心理状態にあった普羅自身の象徴であろう。
作句時の二十代後半の普羅をかくも悩み悶えさせたものは何か。横浜地方裁判所の書記として目の当たりにした社会の諸悪と矛盾、かてて加えてそれを要領よく平然と生きて行く人間への不信などが抑えがたき怒りとなった。当時流行っていた社会悪と自我を見つめるロシア文学作品の自然主義文学の影響も多分にあった。( 中略 )国文学を耽読した普羅であってみれば、そうした怒りも自ずからなるものであろう。そうした怒りや自然主義文学思想を俳句型式に持ち込んで世に問うたところに普羅の俳句にかけた熱い思いがある。
このような普羅ですが、上記著書(p89)では、以下の主宰の言葉も載せられています。
(抜粋)
ただ、そうした時代にあっても、
春尽きて山みな甲斐に走りけり
雪解川名山けづる響かな
農具市深雪を踏みて固めけり
などといった丈高き普羅調の立句が多く作られているのである。
大正期の普羅の人気句は「普羅2 前田普羅の句の魅力」で紹介しましたが、次回は主宰中坪の解説で富山移住前の普羅の句を、より詳しく紹介していきたいと思います。
<普羅5 前田普羅は「山岳俳人」か? >
前田普羅の山岳詠は絶唱が多く、その人気の高さから、普羅は山岳俳句の第一人者と言われています。また「山岳俳人」とも言われてきました。しかし、主宰中坪達哉は、著書『前田普羅その求道の詩魂』の「山岳俳人と呼ばれるが」(p8)において、普羅は「山岳俳人」と容易には言えないと述べています。今回はその理由を紹介します。
(抜粋)
普羅と言えば山岳俳人というイメージが少なからずあるようだ。山岳俳人とは専ら峻厳なる高山を登攀して作品をなす俳人、のことであろうか。となれば、普羅は必ずしも山岳俳人とは言えない。
アルピニストというわけでもない普羅が、なぜ山岳俳人と呼ばれるようになったのか。それは、一に昭和12年(1937)1月の東京日日新聞に発表された「甲斐の山々」5句の大反響とその後の喧伝によるものと思われる。
茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る
霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳
駒ヶ岳凍てて巌を落としけり
茅ヶ岳霜どけ径を糸のごと
奥白根かの世の雪をかがやかす
わけても、<駒ヶ岳>と<奥白根>の句は普羅の代名詞のようになっている。
しかし、ここで注目したいことは、普羅の山行は岳人として絶巓を極めたり冬山を踏破したりするものではなかったということだ。普羅は自らを「渓谷を出づる人」と称したように、渓谷深く分け入り、山の精霊の直中に身を置いて峻厳なる嶺々と相対した。
(中略)
また、『定本普羅句集』にある生涯の作品群を見ても、意外に山岳詠が少ないことがわかる。
普羅は世間で思われているほど「山岳俳人」ではない。山岳詠は普羅俳句の大きな特色ではあるが、決して全てではないのだ。普羅に容易に「山岳俳人」の名が冠せられては、普羅俳句の全貌が伝わりにくいこととなろう。
谷の奥深くに入った普羅は、自身で「降りかかる大自然の力に身を打ち付けて得た句がある」(普羅句集『序』)と言っているように、静かに大自然と対話をしていたのです。その時の普羅の言葉が、上記(中略)の個所で、以下の通り紹介されています。
・(渓谷に)人を遁れて来たのではない、自分の心を結び付くる「永久」をさがしに来たのであった。
また、
・(渓谷に)入る時は出る時を期して居なかった。
・一人の友は、自分が山を出て来る時をたとえて、「出山の仏陀の様に」と云った。
これらの普羅の言葉から、普羅が心のまま好きなだけ自然の中に身を置いたこと、そのため、渓谷から出て来た普羅の姿は、6年の苦行を終えて山を出た時の釈迦の姿と同じように「髪や髭は伸び放題、体は骨と皮だけだ」と、友人から半ば呆れられ、同時に畏敬されていたことが伺われます。
さて、これから折々に紹介していく自然を詠んだ普羅の句の解説のなかには、
・自然の底知れぬ力と魅力に全身で真向った
・渓谷に入っては己が安心立命を図ろうとする普羅の自然への親愛
・自然の息吹との交感に喜ぶ姿
・山霊に抱かれて魂の救済を求めんと彷徨するがごとき
といった主宰中坪の言葉が登場します。普羅の自然への憧憬の句、求道の句、どうぞご期待ください。
<普羅4 前田普羅の立春の句「オリオンの真下春立つ雪の宿」>
令和3年1月9日、富山市で124cmの積雪を記録し、翌10日には128cmとなりました。100cmを超えたのは昭和61年以来、35年ぶりだそうです。ちなみに昭和14年の観測開始以降、最大は翌年の昭和15年の208cmですから、富山市に定住していた普羅はこの大雪を体験していることになります。昔は今と違って毎年の大雪が当たり前だったと聞きますから、雪国の人々の春到来の喜びは、今よりずっと大きかったことでしょう。令和3年の立春は2月3日です。そこで今回は、普羅の立春の句について、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「普羅の永住の地」(p130)から紹介します。
(抜粋) オリオンの真下春立つ雪の宿
雪の宿は、富山移住後間もない普羅の自宅を指す。富山城址公園内に立つ普羅文学碑5句中の1句で、大正末の作。掲句には普羅の自解があるので引く。
オリオンは冬のはじめになると、宵の口から立山の上にかかげられる。冬が更けると共に、オリオンは高く高く昇って来る。「花火」の様なオリオン星座を冬の空に見出すのは左程に困難でない程、其れは美しい姿である。春立つとは云え、雪は毎日降りしきる。我々裏日本(現 日本海側)に居る者の俳句には、春と云っても常に雪を添えなければ真実を伝える事は出来ないのである。
一夜雪は晴れた。空を仰ぐと、其れと目につくオリオンは天頂に来て居た。宵の口にオリオンが天頂に来て居るのは、雪は如何に降るとは云え、最早、暦の明示する通り春が立って居る証拠である。自分の小さな家はオリオンの真下にあって、雪をかぶって居る。
やがて雪解がはじまる。光明と自由とが帰って来る。自分の心は又しても母にめぐり会った子供の如く喜びに打たれる。オリオンの真下の雪の宿を出て、オリオンの真下の富山市中や、奥田村の村道をあるき廻った。
今回の掲句と普羅の自解の文章はとても美しく、壮大な天空と澄みきった地上の世界とが心地よく感じられます。灰色の雪雲が頭上から消えた解放感、美しい星々、白銀の雪、冷たく清浄な空気。雪を被いた家々の灯。そして何より春到来を告げる天頂のオリオン。実際の富山の春は、まだまだ先ですが、春立つ喜びを「光明と自由とが帰って来る」と表現した普羅。雪が大好きな普羅ですが、春が来た喜びの心を抑えかねて歩き廻るのもまた普羅なのです。
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