前田普羅<7>(2021年5月)
<普羅7 前田普羅の富山移住前② 主観尊重俳句に共鳴 >
前回は、普羅の「世路の術にも、心の鍛錬にも幼かった私の狂はしき姿を見る」句として代表的な「人殺す我かも知らず飛ぶ蛍(大正2年)」を紹介しましたが、今回も引き続き代表句2句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「普羅と語る」から紹介します。
(抜粋1 p43) 花を見し面を闇に打たせけり (大正4年)
やはり、顔ではなくて面(おもて)であらねばならない。普羅の書き残したものを読むと、作句時の普羅の面には、もう二つの面が重なっているように思えて来る。すなわち、幼い普羅が母に連れられて行った夜桜帰りの折りの、母と幼い自分自身の二つの面である。その夜のことを普羅は「御花見に行って埃だらけになるより、かうして静かな庭を見て居る方がいいね。自分にふり返りもせず、母は独言の様に云った。あかるい花と、群衆と、喚声とで茫とした母の心は、刻々にさめて行く様だ。自分の子供心からも、御花見のときめきが闇に吸収されて行くのが判った」と書いている。
母は普羅が15歳の頃に亡くなるが、その後の継母とは折合いが悪かった。この句を詠んだのは30歳のときだが、幼少期のその夜の花見の闇が冷気をともなって普羅に纏って来たかのようでもある。母の言った「埃だらけになる」の一語は、普羅の心に圧し掛かって来る唾棄すべき社会の暗部、そして様々な矛盾から来る憤懣に耐え難くなった普羅の有り様にも通じる。格調高くして沈潜した味わいの一句。
(抜粋2 p47) 潮蒼く人流れじと泳ぎけり (大正9年)
冒頭に置かれた「潮蒼く」が何とも印象鮮明であり、鮮やかな潮の色彩が一句を染め抜いている。季語は「泳ぎ」であることは言うまでもないが、「潮蒼く」が青葉のころに太平洋岸を北上する黒潮をいう「青葉潮」をもイメージさせて一句を重厚なものとしていよう。この句は大正9年、普羅の横浜時代の作でありうなずけるのである。
「人流れじと泳ぎけり」からは、汀を遠く離れた遠泳のようにも想える。が、「人流れじ」と見えるのは、汀を歩いての目撃とするならばそう遠い距離ではないはずである。潮の流れの速さは必ずしも沖合だけに限らない。穏やかに見える浅瀬でも、沖へと人を攫う潮の流れは潜んでいる。「潮蒼く」は流される人を呑まんとする、牙を隠して煌めく海の象徴かもしれない。躍動感というにはあまりにも危機感が強すぎるが、必死に泳ぐ人と作者とが一体となった緊張感がある。35歳という若い肉体が敏感に反応しているのである。
世路に腐心していた普羅のこころを「流れじと泳ぎけり」に仮託した一句とも取れるのだが、そう決め付ける必要もなかろうが。
いかがでしたか。普羅の強い「主観の打ち出し」の句を味わう時、読者の私たちもそれを受け止めるだけの心の強さが必要な気がします。次回は、このような時代にあっても、心が穏やかになる普羅の句を紹介しましょう。