前田普羅<10>(2021年8月)

普羅10 前田普羅の富山移住前⑤ 普羅と『ホトトギス』 

  普羅は、大正元年に俳句雑誌『ホトトギス』に投句して以来俳壇で活躍し、大正3年には『ホトトギス』課題句選者になっています。大正5年に横浜裁判所を辞し、時事新報社ついで報知新聞社に移り、大正13年富山支局長として富山に赴任、昭和4年に富山永住となります。この間の普羅と『ホトトギス』について、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「虚子と普羅」から紹介します。

 まず、『ホトトギス』の巻頭(虚子選)を飾った普羅の句を見てみましょう。

(抜粋1)「普羅の巻頭句」より(p117)
 『ホトトギス巻頭句集』は、『ホトトギス』で「雑詠」欄が始まった明治41年10月号から平成7年12月号までの巻頭作品がもれなく掲載されている。その間、選者は、虚子の43年、高浜年尾の26年、そして稲畑汀子現主宰の18年と代わっている。合計年数が合わないのは、途中「雑詠」欄のない時期があったためである。
 虚子が、ホトトギス大正3年正月号に「大正2年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎。」と書いたことは、よく知られている。普羅は、大正第一期ホトトギス黄金時代に、原石鼎、飯田蛇笏そして村上鬼城らとともに四天王と称された。その丈高い俳句は今日の俳句隆盛時代を導くための確固たる基盤を築いた。
 普羅の巻頭を見ると3回、横浜時代の作品である。
 1回目は、大正2年3月号で8句
  雪晴れて蒼天落つるしづくかな
  農具市深雪を踏みてかためけり
  雪の峰に人を殺さぬ温泉かな
  荒れ雪に乗り去り乗り去る旅人かな
  雪明り返へらぬ人に閉しけり
  ぬかるみの本町暗し冬至梅
  雪垂れて落ちず学校始まれり
  炭割れば雪の江のどこに鳴く千鳥
 2回目は、大正3年5月号の4句
  乾坤の間に接木法師かな
  さし木すや八百万神見そなはす
  接穂の事尋ね入りたる濛雨かな
  干足袋を飛ばせし湖の深さかな
 そして、3回目は大正9年9月号の12句
  夏草を搏ちては消ゆる嵐かな
  夏草を刈り伏せ刈り伏せ人動く
  好者の羽織飛ばせし涼みかな
  旱雲月夜の空を駈りけり
  伊豆高し海月静かに渡りけり
  月さすや沈みてありし水中花
  酒中花や石に捨てられ乾きけり
  鮓なるや暗きを出づる主顔
  鮓なるゝ頃不参の返事二三通
  押鮓の鯖生きてあり切らんとす
  人の如く鶏頭立てり二三本
  丈高き花魁草も踊りけり
の24句である。巻頭作品の数が一定していないのも、おもしろい。大正期のその頃は、50句募集であったというから、現在以上の厳選であった。
 その後の普羅は、虚子を仰ぎつつも次第に『ホトトギス』を離れて行くのである。

 次に、虚子の普羅評について見てみましょう。

(抜粋2)「進むべき俳句の道」より(p121)
 大正7年6月に出た『進むべき俳句の道』は、虚子が俳句を志す人々への指針となるよう自らの俳句に対する考えを述べたものである。この中で、虚子は、渡辺水巴、村上鬼城、飯田蛇笏、長谷川零余子、原石鼎ら32人の俳人を取り上げているが、普羅の句については「秋の如く冬の如く、簡素、雄勁、それぞれ異なった姿態を具えていた」と述べている。
  しみじみと日を吸ふ柿の静かな
  病む人の足袋白々とはきにけり
の2句を代表作として挙げ、次のように解説する。

 その調子が洗練されておって、一点の衒気もなく、一点の匠気もない。一寸見ると平々他気ない句のようであって、その中には清新な思想が何の屈托もなく盛られてある。……石鼎君の華やかな句に比較して見るといずれも静かに淋しい。それかと言って決して力の弱い、張りのない句ではない。内部に潜める力は十分にあるけれども、作者の控目なおとなしい性質は容易に表へそれを暴露しないでいるのである。

 この時代の普羅は、7年間勤めた役所を心に染まぬとして辞し、進むべき人生の道を見出そうとしていた時期であった。

 次回からは、富山移住後の、憧れの大自然とともにある普羅の俳句と、その精神性を、主宰中坪の著書『前田普羅その求道の詩魂』より紹介します。 

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