前田普羅<5>(2021年3月)

普羅5 前田普羅は「山岳俳人」か? 

 前田普羅の山岳詠は絶唱が多く、その人気の高さから、普羅は山岳俳句の第一人者と言われています。また「山岳俳人」とも言われてきました。しかし、主宰中坪達哉は、著書『前田普羅その求道の詩魂』の「山岳俳人と呼ばれるが」(p8)において、普羅は「山岳俳人」と容易には言えないと述べています。今回はその理由を紹介します。

 (抜粋)
 普羅と言えば山岳俳人というイメージが少なからずあるようだ。山岳俳人とは専ら峻厳なる高山を登攀して作品をなす俳人、のことであろうか。となれば、普羅は必ずしも山岳俳人とは言えない。
 アルピニストというわけでもない普羅が、なぜ山岳俳人と呼ばれるようになったのか。それは、一に昭和12年(1937)1月の東京日日新聞に発表された「甲斐の山々」5句の大反響とその後の喧伝によるものと思われる。
   茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る
   霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳
   駒ヶ岳凍てて巌を落としけり
   茅ヶ岳霜どけ径を糸のごと
   奥白根かの世の雪をかがやかす
 わけても、<駒ヶ岳>と<奥白根>の句は普羅の代名詞のようになっている。
 しかし、ここで注目したいことは、普羅の山行は岳人として絶巓を極めたり冬山を踏破したりするものではなかったということだ。普羅は自らを「渓谷を出づる人」と称したように、渓谷深く分け入り、山の精霊の直中に身を置いて峻厳なる嶺々と相対した。
(中略)
 また、『定本普羅句集』にある生涯の作品群を見ても、意外に山岳詠が少ないことがわかる。
 普羅は世間で思われているほど「山岳俳人」ではない。山岳詠は普羅俳句の大きな特色ではあるが、決して全てではないのだ。普羅に容易に「山岳俳人」の名が冠せられては、普羅俳句の全貌が伝わりにくいこととなろう。

 谷の奥深くに入った普羅は、自身で「降りかかる大自然の力に身を打ち付けて得た句がある」(普羅句集『序』)と言っているように、静かに大自然と対話をしていたのです。その時の普羅の言葉が、上記(中略)の個所で、以下の通り紹介されています。
  ・(渓谷に)人を遁れて来たのではない、自分の心を結び付くる「永久」をさがしに来たのであった。
また、
  ・(渓谷に)入る時は出る時を期して居なかった。
  ・一人の友は、自分が山を出て来る時をたとえて、「出山の仏陀の様に」と云った。
 これらの普羅の言葉から、普羅が心のまま好きなだけ自然の中に身を置いたこと、そのため、渓谷から出て来た普羅の姿は、6年の苦行を終えて山を出た時の釈迦の姿と同じように「髪や髭は伸び放題、体は骨と皮だけだ」と、友人から半ば呆れられ、同時に畏敬されていたことが伺われます。

 さて、これから折々に紹介していく自然を詠んだ普羅の句の解説のなかには、
  ・自然の底知れぬ力と魅力に全身で真向った
  ・渓谷に入っては己が安心立命を図ろうとする普羅の自然への親愛
  ・自然の息吹との交感に喜ぶ姿
  ・山霊に抱かれて魂の救済を求めんと彷徨するがごとき
といった主宰中坪の言葉が登場します。普羅の自然への憧憬の句、求道の句、どうぞご期待ください。

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