前田普羅<6>(2021年3月)

普羅6 前田普羅の富山移住前① 

 前田普羅は、富山への移住により「次第に人生観、自然観に大なる変化を起し(『新訂普羅句集』)」と述べていますが、それでは、富山移住前の句はどのようなものだったのでしょうか。主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』の「普羅と越中」(p11)から紹介します。

(抜粋)
 富山移住前の句については、普羅自身「世路の術にも、心の鍛錬にも幼かった私の狂はしき姿を見る」(昭和5年刊『普羅句集』)と、述懐している。
   喜びの面洗ふや寒の水(大正2年)
   人殺す我かも知らず飛ぶ蛍 (2年)
   花を見し面を闇に打たせけり(4年)
   夜長人耶蘇をけなして帰りけり(5年)
   潮蒼く人流れじと泳ぎけり(9年)
   寒雀身を細うして闘へり(10年)
 これらの句には、普羅の主観が強く打ち出されている。「心の鍛錬にも幼かった」ゆえの、その反動としての主観の強い打ち出しではないか、と思われる。
 富山移住前すなわち横浜時代の普羅は、高浜虚子に見いだされその影響下にあった時代と言える。「大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎」と虚子をして言わしめた普羅は、虚子がその時代に唱導していた主観尊重俳句に共鳴し、その立役者となっていた。

 それでは次に、その普羅の「狂はしき姿」の最もよくわかる句「人殺す我かも知らず飛ぶ蛍」を、主宰中坪の上記著書(p39)で見てみましょう。

(抜粋) 人殺す我かも知らず飛ぶ蛍
 とにかく「人殺す我かも」は尋常ではない。「飛ぶ蛍」の危うげな浮遊は、不安定で危険な心理状態にあった普羅自身の象徴であろう。
 作句時の二十代後半の普羅をかくも悩み悶えさせたものは何か。横浜地方裁判所の書記として目の当たりにした社会の諸悪と矛盾、かてて加えてそれを要領よく平然と生きて行く人間への不信などが抑えがたき怒りとなった。当時流行っていた社会悪と自我を見つめるロシア文学作品の自然主義文学の影響も多分にあった。( 中略 )国文学を耽読した普羅であってみれば、そうした怒りも自ずからなるものであろう。そうした怒りや自然主義文学思想を俳句型式に持ち込んで世に問うたところに普羅の俳句にかけた熱い思いがある。

 このような普羅ですが、上記著書(p89)では、以下の主宰の言葉も載せられています。

(抜粋)
 ただ、そうした時代にあっても、
   春尽きて山みな甲斐に走りけり
   雪解川名山けづる響かな
   農具市深雪を踏みて固めけり
などといった丈高き普羅調の立句が多く作られているのである。

 大正期の普羅の人気句は「普羅2 前田普羅の句の魅力」で紹介しましたが、次回は主宰中坪の解説で富山移住前の普羅の句を、より詳しく紹介していきたいと思います。

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