前田普羅<35>(2023年9月)

< 普羅35 前田普羅の「老いと漂泊」>

 普羅の俳句において重要な意味をもつ「老いと漂泊」を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。

(抜粋p21) 老いと漂泊

  秋風の吹きくる方に帰るなり(昭和23年) 

 昭和23年、名残惜しき大和の旅先から富山の住まいへと向かう折りの一句である。<秋風の吹きくる方>とは、すなわち富山を指す。普羅は解脱がならぬままに、漂泊の旅を重ねて行く。

 大正12年に横浜で関東大震災に遭い奇蹟的に助かるが蔵書三千余冊とともに資産を焼失、昭和20年8月には富山にて戦災のため横浜時代を上回る蔵書とともに家を失う。そして、翌21年3月、疎開先の富山県西部の津沢町で大火に罹災、以来、転々とした暮らしを余儀なくされることとなる。この間、昭和18年1月には、苦労をかけた妻を亡くした。

  この雪に昨日はありし声音かな(昭和18年)

同23年までに二人の娘を嫁がせて、いよいよ孤愁の影を深めた。

  元日を覚むるやつねの北枕(昭和24年)

 若きより各地へ赴いた普羅であったが、持病の腎臓病悪化とともに晩年になるに従ってその身と魂は漂泊の度を深めて行った。この句は没する昭和29年に先立つ5年前の作だが、辞世的な趣が深い。

  花散つてゐる奥山の恐ろしき(昭和28年)

 <恐ろしき>という強烈な主観語を下五に据えているにもかかわらず、一句全体としては閑寂境に至っている。山の句の中でも黒部峡谷など<奥山>と限定したものは二十句余り。

  奥山に逆巻き枯るる芒かな(昭和9年)

  人の世の奥山の草枯れて立つ(12年)

 普羅にとって<奥山>は、現実の世界を超えた畏敬の地であり、また憧憬の地でもあった。昭和11年には、一代の絶唱、

  奥白根かの世の雪をかがやかす

が生まれている。

 <花散つてゐる>の句は昭和28年作、没する前年のもの。<奥白根>の明るさに対して、なんと暗黒の<奥山>であることか。<奥山>の暗黒に散りやまぬ花が妖しいばかりだ。暗黒より生み出て、暗黒へと散りやまぬ花片の乱舞。身動きもままならなくなった最晩年の普羅の脳裏の<奥山>は、かく恐ろしきものであった。

 しかし、その年の秋には、

  奥山の草爽やかに刈られけり(昭和28年)

と詠まれているのが救いではあるが、それは、気力、体力がいよいよ衰えた普羅が己が苦しみから逃れるために、無理に心の整理をしようとしたようにも思える。

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