前田普羅<62>(2025年12月)

< 普羅62 前田普羅と飯田蛇笏

 定本『普羅句集』は、普羅を継いだ中島杏子によって昭和47年に辛夷社より発行されましたが、その序文は、もともと普羅の墓碑銘の筆を取った飯田蛇笏に依頼されたものでした。編集の進行具合と昭和37年の蛇笏の逝去により幻のものとなってしまいましたが、当時、中島杏子らが蛇笏を訪れ依頼した様子は『辛夷』昭和33年5、6、8月号に記載されています。中でも、主宰中坪達哉は、序文を依頼するくだりは蛇笏の普羅観をうかがい知ることができる貴重なものであるとして、その箇所を抜粋して、著書『前田普羅 その求道の詩魂』で紹介しています。

(抜粋p153) (※一部、現代の国語表記にしてあります)
「実は普羅句集が今年こそ出来ますので、是非とも先生の序文を頂きたいと辛夷会員一同のお願いであります…」
「普羅のことは何時か俳句誌上に書いた筈ですが改めて書きましょう。…普羅のことなら書き甲斐がある」と一言一言力をこめて快諾された。

「普羅師の生前は心から先生の御理解を頼みにして居られた様ですが。辛夷が一時戦争で中絶しかけた時も雲母に客員として作品を発表して居られた程の信頼ぶりでしたが、其の辺の消息は如何でしたでしょうか」
「そうそう、そうだった。普羅は辛夷が復活した後も雲母客員はそのままにして作品を出そうと言うことだったが、わたしゃ、それはいかん、自分の主宰誌が出来た以上、自分の主宰誌一本槍に行かなくては駄目だと力説したがネ…」
「普羅は一寸律儀過ぎた気骨があってネ」と翁はやや歎息めいた口ぶりである。

「先生と普羅師はよく比較されますがこの点は如何でしょう」
「ウン、ウン、私ら二人は一寸意固地な処が似ているからだろう。それと二人とも山好きで山の中へ引込んで居るからかも知れん。作品は似て居るかナ」と翁は一寸疑問符を挟んだ。「私が新聞で初めて普羅の甲斐白根の句を推賞したがネ、それから俳壇が俄かに普羅の山の句に注目し出したのは愉快だったよ」と翁は言葉を転じて普羅師の作品の勁健なことを力説されて現代俳壇のこと迄に言及されたことに私ども四人は大いに啓発された。
「難解派や社会派など新興俳句の諸派は幾つもあるがネ、判らぬ俳句は厭だネ。貴方は普羅の伝統を受けて判る俳句を作って居られることには好感が持てますよ」と翁ははっきりと言われたが、私どもはそうそう安心もして居られぬ心地がして、近代俳句の傾向と普羅師の伝統をどうマッチさせ句境の開展を計るべきかに苦慮して居る心情を語ると、翁は「さもありなん」と言う面持ちで、「普羅の本領は仲々至り難いものでしょうが大いに努力して欲しい」と激励された。

参考(昭和12年1月、東京日日新聞に発表された「甲斐の山々」5句)
  茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る
  霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳
  駒ヶ岳凍てて巌を落しけり
  茅ヶ岳霜どけ径を糸のごと
  奥白根かの世の雪をかがやかす

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