前田普羅<63>(2026年1月)
< 普羅63 普羅の言葉 >
主宰中坪達哉は、著書『前田普羅 その求道の詩魂』の第1章p3で、普羅から学ぶべきこととして3つのことを挙げています。①普羅が唱えた「地暴論」にもとづいた作句の徹底、②丈高い立句を目指すこと、③普羅の高邁な作句精神に学ぶこと、の3つです。この3つ目の普羅の作句精神を表す一番大切な言葉への主宰の思いを紹介します。
(抜粋p25) 普羅の言葉
わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず。
こは俳句をいやしみたる意味にあらで、俳句を尊貴なる手段となしたるに過ぎず。
普 羅 (昭和9年『新訂普羅句集』小伝)
初学時代、普羅のこの言葉を聞いたときの驚きと感動を今も忘れはしない。
昭和57年、私は普羅晩年の弟子・福永鳴風の門を叩いた。師の私に対する句作指導は厳しく、「これは俳句ではありません」とバッサリやられることもしばしばであった。俳句を言葉のレトリックの一文芸と高を括っていた私の甘い考えは、徹底的に叩きのめされた。そして、鉄槌をくらうかのごとくに聞いたのが、冒頭の言葉であった。
普羅のこの言葉について、普羅研究の泰斗中西舗土氏は、次のように述べている。
【一見容易にうけとられるようで、その真意は非常にわかりにくい言葉である。寺小僧のお経読みのお経知らずに似て、普羅周辺ではただ暗誦していて深く究めなかったうらみが残っている。(平成3年『評伝前田普羅』)】
中西舗土氏は「非常にわかりにくい言葉」とだけ言って、どこがどうわかりにくいのか、具体的には言及していない。一般的には、「俳句を尊貴なる手段となす」という箇所は理解しにくいと思う。しかし、「わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず」という言葉は、古今の名言がそうであるように、これを読んだ人々に深い感銘を与えるものと思う。
余談めくが、数年前に聞いた落語家柳家小さん師匠の語りを思い出す。それは「噺ばかりいくら稽古したって、上手くはならない。卑しい者は卑しい噺になるし、生意気な者は生意気な噺になってしまう。人間そのものを磨かねばならない」というものであった。話芸のより高みを目指す人間国宝柳家小さんの真骨頂を思いつつ、普羅の言葉に重ね合わせて聞いていた。

