前田普羅<16>(2022年2月)
<普羅16 前田普羅の「地貌」の句④>
今回も引き続き、「地貌」論の視点から鑑賞すると、より深い味わいを感じることのできる普羅の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p67) 春昼や古人のごとく雲を見る
『春寒浅間山』の「白根の巻」所収の一句であるが、先ず古人をどう解釈するか、が問題となろう。古人といえば、例えば『奥の細道』の一節である「日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」の古人を思うのだが、この句ではどうだろうか。「白根の巻」を見ると、掲句の前には「奥山の枯葉しづまる春夕」「独活掘りの下り来て時刻をたづねけり」があり、後には「この池は菱とりの池菱若葉」「蛙なく入山村の捨て温泉かな」が続く。こう見ると、「古人」は必ずしも「風騒の人」ともいえないようである。
『春寒浅間山』は普羅がその作句姿勢として唱える「地貌」を大々的に世に問うた句集である。一つ一つの地塊が異なるように地貌の性格も又異ならざるを得ず、それらの間に抱かれた人生の地貌の母の性格による独自のものを捉えるべし、との普羅の意を体するならば、「古人のごとく雲を見る」と詠む普羅の眼差しは、いわゆる風騒の人々へ向けられたものではなく、この地に生き死にしてきた名もなき人々へのものとも思えて来る。春昼の語りかけてくるような雲を楽しそうに仰ぎ見ている、そんな普羅ではなかったか。
(抜粋 p60) 山吹を埋めし雪と人知らず
大雪のためにすっぽりと雪に覆われた庭である。「山吹を埋めし雪」そして「人知らず」とあるから、その雪を踏んでの行き来もあったろう。そんな雪の庭を朝暮に眺め飽かないのである。雪に押し固められながらも芽を出す山吹のたくましさを信じて疑わない普羅、脳裏には花の鮮黄色も映じていようか。が、大事なことは、雪を決して山吹に仇なすものとは見ていないことだ。山吹を愛しながらも、雪は雪として愛すべき対象として朝暮に会話するかのように眺めている普羅なのである。地貌を愛する所以であろう。
「地貌」を意識して「白根の巻」を読むと、春昼の句の中にも、「独活を掘る人」や「菱をとる人」のような「この地に生き死にしてきた」人々の姿や生活が浮かんできます。また、「普羅3(2021年1月)」でも普羅を「雪の詩人」と紹介しましたが、山吹の句には、雪国の生活に溶け込んだ普羅の姿があります。
次回も引き続き普羅の「地貌」の句を紹介したいと思います。