前田普羅<11>(2021年9月)
<普羅11 前田普羅の富山への思い>
これからは、富山移住後の普羅とその俳句を、紹介したいと思います。今回は、普羅の富山への思いを見てみましょう。
まず、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』から紹介します。
(抜粋 p132)
普羅が報知新聞(当時は一般紙)富山支局長として富山市に赴任したのは、大正13年の5月であった。富山への赴任内示を承諾するのに5分と要しなかった、という。
普羅自身の言葉から、普羅の富山の地に寄せる熱い思いが伝わってくる。
小学校ではじめて日本地理を学んだ時、雪国として頭に打ち込まれたのは東北地方でなく、此の越中の国であった。「雪の底の生活をせめて一冬でもやって見たい」と云ふ心は、已に十五六歳の時に芽ざして居た。一冬の生活は出来なくとも、一度は雪の越中の国を通過して見たいとまで思って居た。其の越中に住むに至って、雪の来る毎に子供の如く喜び、そして壮麗目をうばう許りの雪解の上に踊った。(『渓谷を出づる人の言葉』より)
さて、普羅の赴任を知った「辛夷」の人たちは、いち早くその門を叩き、俳句談や古本談や旅行談に熱中したようです。街に繰り出せば普羅は粋で陽気で、弟子の中島杏子は普羅について「文学道には厳しいお方であったが、人間としては多彩な温かい心の持主であった」と述べています。(『定本普羅句集』p649)そして昭和4年4月、普羅は報知新聞社内の異動を機に社を辞して富山永住を決意します。翌5年の『普羅句集』の序では、以下のように富山を述べています。
(抜粋)
私には若干の愛書と、家族を容れて余りある古き二張の麻蚊帳と、昼夜清水を吐いて呉れる小泉と、ジャマン製の強力なる拡大鏡一つとがある。その上に、周囲には多くのよき友があり、之等を抱いて力強き越中の国の自然がある。(『定本普羅句集』p4)
こうして普羅は富山の地に生きることになります。そして、美しくも厳しい自然と、そこに生きる人々の風土に根ざした暮らしを体感していきながら「地貌」論を展開し、俳句精神を深化させていきます。次回は、その普羅の「地貌」論を紹介したいと思います。